韓国大田(テジョン)にて

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2015韓国の桜の開花予想

大田でもレンギョウ、梅、山茱萸、モクレンなどが咲きはじめ春本番です。今朝、桜のつぼみがふくらんでいるのを見ました。
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追記(2015年4月3日現在)
下の桜の開花予測ですが、実際はこれよりもかなり早いようです。たしか去年も予想より1週間ぐらい早く咲いた記憶があります。僕の住んでいる大田の場合、4月3日現在ですでに満開です(昨夜の雨で散り初め?)。もしかしてこの予想図をご覧になっているかたに旅行スケジュールなどので何かご迷惑がかかるといけないと思い、追記しておきます。


韓国気象庁のページに2015年の桜の開花予想に関する記事がありました。

今年の桜の開花、平年より1∼3日早い見込み
- 済州・西帰浦で3月24日、ソウル4月9日開花 -

2015年の韓国の桜の開花時期は平年より1∼3日程度早く、昨年よりは6日ほど遅いと予想されるそうです。以下のリンクに韓国の2015年の桜前線の予想図があります。
http://web.kma.go.kr/notify/focus/list.jsp?bid=focus&mode=view&num=1147

満開はここに表示されている時期の一週間ほど後になるそうです。
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# by eowjs | 2015-03-26 21:38 | 韓国について | Comments(0)

延世大語学堂で勉強した頃③

そのうち僕を下宿に案内してくれたPさんのルームメートだったC君と仲良くなった。彼はソラボル芸術大学の学生で、京畿道龍仁の出身だった。彼は僕のことを「ヒョン」と呼んだ。男なのだがなんとなく女性っぽくて薄く化粧し口紅も塗っていた。話しかたも女性っぽくて驚いたときなど「オモ(어머)!」と言っていた。でもホモセクシャルというのでもないようでC君にはちゃんと彼女がいて、自分が結婚したら両親が洋服の店を出してくれるのだと言っていた。

当時、延世大学韓国語学堂ではその日に習った文型を使って短い作文をするというのが毎日の宿題だった。僕は午前中の授業が終わって、学食で700ウォンぐらいの安い昼飯を食べてから下宿に戻ると、その宿題をした。そして作文を韓国語ネイティブのC君にチェックしてもらった。その意味で下宿での僕の韓国語の先生だった。

試験前になるとお返しに僕は彼の一般教養科目の教科書に出ている漢字語の読み方を教えてあげた。法学の教科書などには漢字が多くてC君はそれがほとんど読めないようだった。その意味では持ちつ持たれつという関係だった。

ある夜、C君が新村の下宿近くにある自分がアルバイトしているコーヒーショップに行こうといった。その日は非番だが、友達が勤務しているという。C君は「ヒョン、僕の友達がサービングしに来たら『ヤー、ノ、トッパロヘ』と言うんだよ」と言った。その通りに言ったら彼の友達は目を丸くしていた。

当時僕はたばこを吸ったが、C君もまたたばこを吸った。ところがC君のルームメートのPさんがタバコが大嫌いだったので、僕の部屋に吸いにきた。また梨花女子大学のSさんの部屋でタバコを吸いながら世間話をしたこともあった。おとなしそうに見えたSさんが喫煙するのはちょっと意外だった。

冬のある日に母が日本から小包を送ってくれた。クリスマスのころだったと思う。C君が何が入っているか気になるようで僕の部屋に来て小包を開けるのを見ている。セーターが入っていた。それを彼にあげたら「オモ」と言ってとても喜んだ。彼が喜ぶのをみて僕もうれしかった。

C君は僕が語学堂の6級になるころには大学を休学して軍隊に入った。女性っぽい面のあるC君が軍隊でちゃんとやっていけるか、ちょっと心配していたところ、手紙が来て、「体のあちこちが痛いので膏薬を送ってほしい」と書いてあった。気の毒ではあったが、僕も自分の引っ越しなどで忙しく、結局膏薬を送ってあげられなかった。

その後引っ越しをして連絡が取れなくなり、今に至る。新村の下宿でお世話になったC君のことは今もよく思い出す。
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# by eowjs | 2015-01-04 00:16 | 韓国について | Comments(0)

延世大語学堂で勉強した頃②

下宿の部屋は最初は一人部屋だった。朝になるとおばちゃんが各部屋を回りながらドアをたたき「イロナー、アチムモゴー(起きて、朝ご飯食べなさい)」と起こして回った。僕はまだ布団がなかったので寝袋に入って寝ていた。おばちゃんはドアの隙間からそれを見たのか、「布団を買いなさい」と言った。それで新村の現代百貨店の近くにあった市場の布団屋まで連れて行ってくれた。そこで敷布団と掛布団を買った。

下宿にはソウル市内各大学の学生さんがいた。僕を下宿に案内してくれたPさんとそのルームメートでソラボル芸術大学のC君、延世大のK君、西江大のY君、梨花女子大のSさんなどと口をきくようになった。ほかにも社会人だったが弁理士(だったと思う)の資格を目指して勉強しているヒョンニムもいた。

このヒョンニムの洗濯を僕がときどきしてあげた。自分の洗濯をするときに「パルレオプスセヨ?」と聞く。もしあれば一緒に洗濯機を回して、脱水してから持っていった。そのせいかヒョンニムはときどき下宿の近くのポジャンマチャ(屋台)へ連れて行って夜食のキンパプ(海苔巻き)や辛いラーメンなどをごちそうしてくれた。たいがいの学生さんとは朝と夜のごはんの時に顔を合わせると世間話をしたが、やっぱり日本があまり好きでないのかほとんど口をきいてくれない人もいた。

おばちゃんの作ってくれるごはんは美味しかった。今でも思い出すのはたぶん骨を煮込んで作った白いスープで、食べる直前にネギと塩を好みの量だけ入れて食べた。おいしかった。(つづく)
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# by eowjs | 2015-01-01 16:53 | 韓国について | Comments(0)

延世大語学堂で勉強した頃①

僕は大学生だった1989年頃から韓国語の勉強を始めた。最初はNHKラジオのハングル講座を欠かさずに聞いた。そのあと、日韓交流協会(という名前だったと思う)でも習った。先生は僕の通っていた大学の大学院に留学していたソウル出身の女性で、一週間に一回だったがとても楽しく勉強した記憶がある。ハングルを声を出して読むだけでも嬉しかった。休み時間に飲んだ冷たい「メッコル」の味が懐かしい。

先生が研究が忙しくなってやめ、あたらしい先生が来られた。優秀な先生だったが僕とは合わずそこでの受講はやめてしまった。2年留年して6年通った大学を卒業したあと、韓国で韓国語を勉強したいと思ってフリーターをしながら少しずつお金をためた。当時は高麗大、梨花女子大、延世大、西江大などに外国人向けの韓国語学校があったが、知り合いが通っていた延世大の韓国語学堂に行きたいと思った。

願いがかなって1992年の秋からソウルの延世大学校韓国語学堂で韓国語を勉強することになった。現在はシステムが変わっているかもしれないが、当時は1級が初級で、6級まで終えると卒業だった。春学期、夏学期、秋学期、冬学期があり、滞りなくゆけば1年半で卒業できる。レベルテストを受けた結果、僕は4級のクラスに入るようにと言われた。

2年ほど住んだ大阪のアパートを引き払い、ショルダーバッグ一つと寝袋をもって大阪南港から阪九フェリーに乗った。翌朝に小倉だったかに着いて、電車で下関まで戻り、夕方まで時間をつぶしてから関釜フェリーに乗り釜山へ向かった。10月のフェリーの雑魚寝エリアは閑散としていた。当時ソウルに知り合いのYさんご夫婦が住んでおられたので最初の夜一泊お世話になった。

翌日、延世大語学堂の学生課事務所に行った。下宿を紹介してもらおうと思ったのだ。窓口の近くに立っているとメガネをかけた兄ちゃんが声をかけてきた。彼と話しながら「下宿を探しに来た」と言ったら、彼は「じゃあ僕が今いる下宿に来ればいい。朝晩出るごはんはうまいし、おばさんもいい人だ」と言った。彼は20代後半だった。韓国で生まれて幼い時に両親についてカナダに移民したのだと言った。彼は父母の国の言葉である韓国語を語学堂で勉強していたのだ。

彼の後について下宿に向かった。延世大正門前の鉄道ガードをくぐってちょっと行ってから右に曲がった。にぎやかな飲食店街の一角にあるビルの上の方が学生向けの下宿屋になっていた。部屋を見たら気にいったのですぐに契約した。朝食と夕食つきの「一人部屋(독방=独房)」で一か月たしか35万ウォンだった。

この新村(シンチョン)の下宿屋の一人部屋で僕の韓国生活が始まった。今から22年前のことだ。(つづく)
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# by eowjs | 2014-12-26 15:46 | 韓国について | Comments(0)

大田川の「栄橋」のこと

 先日ソウルからりうめい様をはじめとする方たちが大田の近代建築を見に来られた。地元の人たちもあまり興味を持たないのにありがたいことだ。僕も金魚のふんよろしく一緒に回った。その時のことはりうめい様がホームページ「韓国古建築散歩」で美しい写真とともに紹介されている。

 午前中は蘇堤洞で大田大学建築学科の李喜俊先生に案内してもらいながら戦前に建てられ今も残っている鉄道官舎などを見学した。そのあと大田駅前のシンドカルグクスでお昼を食べてから、かつて大田府尹が住んだという建物を改造したカフェ「アンドル」に行くというのでついて行った。

 カフェ「アンドル」は駅の側から見ると大田川(テジョンチョン)の向こう側、対岸にある。それで橋を渡ることになる。今回は中央路にかかる木尺橋ではなく、その一本北の橋を渡った。昔の住所でいうと栄町2丁目から春日町3丁目に渡る橋。それでその橋は戦前から「栄橋(さかえばし)」と呼ばれた。僕は今も「栄橋」を韓国語で発音した「영교(ヨンギョ)」と呼ばれていると思いこみ、橋の手前でソウルから来られたかたたちにそうお話した。

 ところが、橋を渡る際にあれは何というのか橋名板(でしょうか?)を見ると 大きな字で「선화교(宣化橋)」と書いてある。橋の向こう側(アンドルのあるほう)は宣化洞だから「宣化橋」という名はうなずけるが、僕は今もこの橋は「栄橋」だと思い込んでいたので、何か嘘の話をしたようでちょっと恥ずかしかった。
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橋の名前は「栄橋」から「宣化橋」に変わったのか、昔から「宣化橋」だったのか、 家に帰ってインターネットで調べてみたら次のような記事があった。

大田・栄橋の名前を宣化橋に変更
聯合ニュース|2007.07.13 15:51

大田市中区は宣化洞と三省洞をむすぶ橋である栄橋の名前を「宣化橋」に変更し、橋名板も取り替えたと(2007年7月)13日に発表した。

これは栄橋という名前が宣化洞から日帝時代に三省洞の行政区域名であった「栄町三丁目」(ママ)に渡る橋であることからつけられ、日帝の残滓という指摘を受けてきたことに対する措置。

中区の関係者は「中区地域は日帝時代の大田の中心地で日帝の残滓が少なくない。民族の自尊心のために日帝の残滓をこれからもなくしてゆきたい」と話している。
(以上、直訳です。引用元の記事URLは↓)
http://media.daum.net/politics/others/newsview?newsid=20070713155113120

「日帝の残滓」だから「民族の自尊心」のために変えたというのであった。日本人が勝手につけた「栄町」という地名の一部が今も橋の名前に残っているのはけしからん、と韓国の人が思う気持ちは理解できる。それにしても2007年に名前が変わったなら、僕は7年間も知らなかったことになる。でも変わったことを知らないのは韓国の人も同じらしく、栄橋から川下数百メートルの大田川沿い道路には今もこんな道路標示があるのを見かけた。
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これを機会に「栄橋」について調べてみた。まず1928年の地図にはまだ栄橋の位置に橋は記されていない。オレンジ色の〇のところ。
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つづいて1935年6月26日付の『東亜日報』に「栄橋」と「宝文橋」の「初渡式」の記事が見える。日本語でいうと「渡りぞめ」か。

大田兩新橋 初渡式擧行 積年의宿題遂解決
【대전】대전에 다년간 숙제로나려오던 보문교(寶文橋)와 영교(榮橋)는 지난 二十二일 각각다리밑에서 수백회중리에 초도식을 성대히 거행하엿다는데 보문교는 四十간, 영교는 五十四간 폭은 각 五메돌씩으로 교각만 철근콩크리트이나 장래는 전부콩크리트로할 게획이라 한다.(사진은 보문교와영교)

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1940年のものと推定される「大田府畧図」には「栄橋」の名も見える。
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日本人が引き揚げたのちも2007年までは「栄橋(ヨンギョ영교)」と呼ばれた(はず)。こちらのページに1960年代の栄橋の写真がある。↓
http://cafe.daum.net/DJJ29/5QKv/223?q=%BF%B5%B1%B3%20%B4%EB%C0%FC%20%BC%B1%C8%AD%B1%B3

写真の説明には「宣化橋(1960年)」とあるが、橋の上の車は1960年よりは新しいタイプに見える。1960年代後半に写された写真だろうか。
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# by eowjs | 2014-06-09 18:39 | 大田(テジョン)の今 | Comments(0)