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韓国大田(テジョン)にて

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1945年8月15日 終戦時の忠清南道知事

以前、第二次世界大戦終戦時のテジョンの状況について、森田芳夫氏の『朝鮮終戦の記録』を引用したことがある。(http://shinkiku.exblog.jp/11941444/)それは、

忠清南道の幹部がはじめて終戦を知ったのは、8月14日午後10時ごろとされている。(中略)15日正午、詔書拝聴後に増永弘(朝鮮人)知事の訓示があり、終わって日本人職員は解散したが、知事以下の朝鮮人職員は、居残って何やら申し合わせ、やがて朝鮮語で万歳の叫びをあげた。(中略) 道庁内には、朝鮮人職員により忠清南道行政委員会が生まれ、日本人退陣後の部課長を決定していた。知事は、道庁職員の面前で殴打され、官舎にひきこもって出勤しなかった。

という内容であった。この終戦時の忠清南道知事の増永弘氏(韓国名:朴在弘)について気になっていたのだが、ネット上で同氏に対して1970年代に行われたインタビューの内容が公表されているのを見つけた。その内容を紹介したいのだが、それに先んじて今日はその朴在弘氏のプロフィールを見てみたい。

박재홍(パク・チェホン, 朴在弘, 日本名:増永弘, 1892年1月15日 ~ 1977年2月18日)

1911年に忠清南道魯城郡の臨時職官吏に採用され、朝鮮総督府の官吏となる。同年末に判任官見習として採用され、1912年に正式に郡書記になり魯城郡にて勤務した。以後青陽郡財務係を経て咸鏡南道洪原郡などで勤務した。

1923年には忠清南道内務部地方課勤務の辞令を受け、翌年高等官8等の総督府郡守に昇進した。咸鏡南道豊山郡に郡守として赴任し、1931年には日本政府から勳6等瑞宝章を授与された。

豊山郡、新興郡、永興郡(いずれも咸鏡南道)の郡守を経て1934年には高等官5等の朝鮮総督府理事官に昇進、咸鏡南道内務部産業課長となった。同年末には高等官4等に昇級とスピード昇進した。咸鏡南道理事官であった1935年には総督府が施政25周年を記念して表彰した表彰者名簿にもその名が見える。

以後、平安南道参与官を経て太平洋戦争の終戦直前には道知事にまで昇進した。平安南道参与官であった1943年に従5位勳4等に敍位されている。太平洋戦争の終戦当時には忠清南道知事として在職中であった。


参考ページ

韓国国史編纂委員会 韓国史データベース
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=im_106_10216

韓国語版ウィキペディア
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%95%EC%9E%AC%ED%99%8D_(1892%EB%85%84)
by eowjs | 2013-01-02 18:01 | 大田(テジョン)の昔