調べものをしている途中で内野健児氏の詩を目にする機会があった。
それでちょっと同氏の略歴を調べてみた。
内野氏は1899年に長崎県対馬の厳原で生まれ、対馬中学校、広島高等師範学校を卒業し、1920年に福岡県立鞍手中学に国語及漢文の教諭として赴任した。
1921年に両親の希望により朝鮮での勤務を考え朝鮮総督府へ出向、同年忠清南道大田の大田中学校(1917年開校)教諭となった。
1922年に大田の本町1丁目の小幡方に「耕人社」を設立し文芸誌『耕人』を創刊、主宰する。
1923年に第一詩集『土墻に描く』を発刊するが総督府により発禁押収された。
1925年に京城公立中学校へ転勤し、『耕人』終刊。
のち1928年に総督府により京城公立中学校教諭を罷免され、朝鮮追放を宣告された。
帰国後は「新井徹」の名でプロレタリア文学の分野で活躍したが
1933年に『プロレタリア詩集』のことで杉並署に検挙2ヶ月にわたり拘留、
1937年には『詩精神』のことで中野署に検挙されるなどして体をこわし、肺を病んで
1944年に永眠した。
(新井徹著作刊行委員会(1983)『新井徹の全仕事』創樹社 所載の年譜を参考にしました。)
約100年前の大田で若き日の内野氏は教鞭をとりながら詩を作り、同人誌を編集していたのだ。
上記『新井徹の全仕事』には大田中学時代の教え子であった辻萬太郎氏の文章も収録されている。
それによると辻氏が大田中学に入学したのは1921年の春で、入学式で担任教員として紹介されたのが年若い色白の美青年内野健児氏だったそうだ。授業はすこぶる熱心で担任としても情熱をもって生徒たちに臨み、時には悪童たちを教壇にならべて頬うちをくわせることもあり、学生たちは「アニキ」というニックネームで呼び敬愛の情を表したという。
辻萬太郎氏はのち大田の本町2丁目で父君から受け継いだ辻醸造所を経営された。「富士忠」ブランドの醤油を朝鮮だけでなく満州でも販売するなど優れた経営手腕で事業を発展させ、各種の役職に名を連ね、戦前の大田の日本人社会では知らぬ人のいないリーダー的存在として活躍された。
キミチの季節
野から街へ続くのだ
キミチの季節を続くのだ
チゲで続くのだ、車で続くのだ
土の戦士の繰込だ
百姓どもの進軍だ
市場は山だ
白菜の山だ、大根の山だ
遂々市場の占領だ
みんな出て来い
用意しろ!
甕を並べよ、洗へよ
日に乾せよ
そして大根だ、白菜だ
詰めよ詰めよ、詰め込めよ
芹より、辛子よし
野の精気を封じ籠め
栗よし、茸(たけ)よし
山の精気も封じ籠め
貝よし、海老よし
海の精気も封じ籠め
金の笄(かうがい)・玉飾り
典当舗(しちや)に置いても
カシーナいそげ
オモニもいそげ
さあ市場へ繰込だ
街の女軍の進撃だ
註
キミチ・・・漬物。朝鮮では如何な貧しい家でも朝鮮漬をつけないではおかない。
カシーナ・・・娘
オモニ・・・母
1927・12
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