韓国大田(テジョン)にて

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森田芳夫『朝鮮終戦の記録』

先週金曜日に忠南大学の図書館に行った。外国の原書が配架されているコーナーで偶然森田芳夫氏の『朝鮮終戦の記録』を見つけた。この本は昔僕が学部の卒業論文で「朝鮮神宮」について調べたときに初めて接した本である。初版は昭和30年代の末ごろで、今は巖南堂書店から復刻版が出ているようだ。サブタイトルは「米ソ両軍の進駐と日本人の引場」である。

朝鮮半島からの引き揚げ、特に38度腺以北からの引き揚げは苦難に満ちたものであったらしい。終戦時に平壌にいた小説家五木寛之氏もエッセイでその時のことを書いているのを読んだことがあるし、戦前大田に住んでおられた方々から直接お話を伺ったこともある。当時それらの方々の舐めた辛酸は想像を越えるものであったろう。ぜひ、この『朝鮮終戦の記録』をゆっくり読んでみたい。

以下、同書から「南朝鮮各道の終戦対策と朝鮮人側の動き」という箇所の大田に関連のある部分を引用する。

2忠清南道

 忠清南道の幹部がはじめて終戦を知ったのは、8月14日午後10時ごろとされている。 この時刻は、忠南警察部石井課長の記録によるが、これは同盟通信社大田支局を通じて大田の中鮮日報社に伝えられ、それが警察部に内報されたものであるから、おそらく京城と同じく午後11時ごろのことと思われる。京城からなんらの公報もなかったが、大久保清和警察部長は、 官舎に部内の課長会議を開き、管下の各署長に電文を発して、重大放送のあることと、国家の再建を子孫に託することを伝え、敗戦を言外ににおわせた。15日正午、詔書拝聴後に増永弘(朝鮮人)知事の訓示があり、終わって日本人職員は解散したが、知事以下の朝鮮人職員は、居残って何やら申し合わせ、やがて朝鮮語で万歳の叫びをあげた。
 8月16日に「東震共和国」の閣僚の顔ぶれで紙面をうずめた「中鮮日報」が大田府内に掲示された。もう中鮮日報社は朝鮮人側に占拠されていた。左派の黄義準氏を中心に、大田建国準備委員会が南鮮合同電気会社大田支店の楼上を占拠して活動しはじめた。その夕刻「ソ連軍の先発隊大田に到着」 のデマが流れ数千の民衆が大田駅に集まった。午後1時京城着というデマであったから、大田着は夕刻となっていた。ソ連軍はこなかったが、群衆の中で、民族独立の歓喜をあおる演説が行なわれた。米英軍歓迎の英文のプラカードをたてて民族主義系李雄烈氏の一派と左派との間にはやくも衝突がみられた。道庁内には、朝鮮人職員により忠清南道行政委員会が生まれ、日本人退陣後の部課長を決定していた。知事は、道庁職員の面前で殴打され、官舎にひきこもって出勤しなかった。建国準備委員会の下に、 治安隊が生まれて、ある期間、警察と協力して治安にあたった。
 道内の青陽・天安・温陽・洪城・保寧・舒川等では、京城から直接入りこんだ学徒隊が指導権をもっていた。天安で保安隊が警察署を占領し日本人警察署長を一時監禁した。唐津・礼山でも警察官が保安隊のため一時監禁され、保寧で保安隊員が日本人警察官の引揚を妨害しようとした。公州で、朝鮮人高等係刑事がおそわれ、瀕死の重傷をおうた事件があった。
 大田の呉羽紡績・理研機械・東洋製粉等の工場では、朝鮮人従業員が、その経営管理権の接収を要求しはじめた。
                   森田芳夫(1964)『朝鮮終戦の記録』 pp.87-89

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by eowjs | 2010-01-11 12:07 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)
Commented by 大絶画 at 2013-05-24 08:37 x
はじめまして大絶画と申します。
復刊ドットコムに森田芳夫著『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』をリクエストしました。ブログをご覧のみなさまの投票次第で復刊される可能性があります。
URLから投票ページにアクセスできます。主旨に賛同していただけるようでしたら投票へのご協力をお願いします。
Commented by eowjs at 2013-06-30 11:20 x
大絶画様

お返事が遅くなりすみません。おっしゃるところの書籍復刊の投票、締切前にしておきました。