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韓国大田(テジョン)にて

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東光橋について(りうめい様へ)

りうめい様

はじめまして。「東光橋」に関する記事にコメントくださり、どうもありがとうございます。まず、お返事が遅くなってどうもすみません。お返事をコメント欄に書き、アップロードしようとしたら文字数をオーバーしているとエラーメッセージが出ましたので、こちらのブログ本文に書くことにしました。

白石鉄二郎氏の名前は大田の歴史に関する本でしばしば目にしますものの、僕は断片的な知識しか持っていません。たとえば1915年に大邱との陸軍部隊の誘致合戦に敗れて学校組合管理者を引責辞任したこと、1921年ごろに大田では「長老」と呼ばれていたこと、1932年に忠南道庁が大田に移転してきたとき移転祝賀会の会長を務めたこと(以上、田中麗水「新興大田の回顧」『釜山日報』1932年の新聞連載記事)

大田居留民会の後進である大田学校組合の第二期会長(1913-1915)としてさまざまな施策に取り組んだこと(田中麗水(1917)『朝鮮大田発展誌』pp. 30-32)

「白石農場」は大田の果樹園の中で規模が大きく、同園の苹果紅玉が朝鮮施政5年紀念物産共進会で金牌を受領したこと、(同上書p.86)

1930年代中盤に大田建設の功労者とされていたこと(安齋霞堂(1932)『忠清南道発展史』湖南日報社p.37) ぐらいでしょうか。

下関商人の白石正一郎氏との関係についてですが、名前等からして、もしかすると親戚かと推測するぐらいで、今の僕は全く知るところがありません。お役に立てずどうもすみません。

つぎに東光橋の名前の由来です。りうめい様は白石鉄二郎氏が山口出身で、その親族かもしれない白石正一郎氏宅の近くに東光寺がある。鉄二郎は故郷のお寺の名前にちなんで大田の橋に「東光橋」と名付けたのではないか、と推測なさっているのですね。

白石鉄二郎氏は1925年6月に大田面長になっており、大東川の治水工事も彼の在任中のことなので、自分の故郷にちなんで名付けた可能性は十分にあると思います。ただ、それを証明するには史料を探す必要がありますね。韓国の国家記録院に「大田治水及下水改修工事施行及国庫補助書類」(1927年および1928年)という文書があるそうです。僕は見たことがないのですが、もしかするとこのような資料に橋の名前の由来などに関する情報があるかも知れません。

「東光橋」の名前の由来について、もう一つの可能性として提示できるのが、「東光」という地名に由来するというものです。橋の2キロほど東北方向に「東光山」という山があり、そのふもとの集落をかつて東光マウルと呼んだそうです。(大田直轄市(1994)『大田地名誌』p.310)今は東光初等学校という学校名にのみその名残をとどめていますが、西南の方から来た人が東光橋を渡り道に沿ってまっすぐ行くと方向的にはその東光という集落に至るので、もしかするとそれに何か関係があるのかも知れません。

はっきりしたことはわからないのですが、とにかくりうめい様、大田の歴史に関心を持ってくださってコメントくださりありがとうございます。コメント欄のお名前の部分のリンクを通じて韓国の近代建築に関するすごく内容のすぐれたブログを運営しておられることを知りました。また遊びに行かせてもらいますね。長くなりました。今回はこれぐらいにしておきます。
by eowjs | 2013-06-24 12:16 | 大田(テジョン)の昔