詩人の福中都生子さん(1928-2008)は3歳から11歳までの幼少期を韓国の大田で過ごした。その福中さんの著書に『大田(てじょん)という町』という詩集がある。
福中さんは1986年9月にソウルで開かれた第2回アジア詩人会議に参加するために47年ぶりに韓国を訪れた。そして慶州からソウルへと向かう高速道路のバスの中から遠く大田の町を見た。「
むかし住んでいた町」という詩には幼い日のふるさとに再会したその時の気持ちが次のように記されている。
(上略)
四十七年目のめぐりあい
遠望するバスの窓からは
白いビルが蜃気楼のように建ちならび
町の中央を流れていた想像の川がみえた
(中略)
あふれるものをあふれるままに
わたしは じっと山蔭に遠去かる
幼年期のふるさとを見送った
どうしてなのか
ことばがみつからない
なみだばかりがこみあげてきて
ひとつぶ ひとつぶが
どもるようにわたしの頬にささやいた
健気な町よ
けなげなひとびとよ
けなげな けなげな
少女たったわたしたちよ
ここで「町の中央を流れていた想像の川」とされているのは恐らく「大田川」のことだと思う。現在大田駅前の目抜き通り中央路をまっすぐ西に500メートルほど歩いて行くと川が流れていて橋が架かっている。この川が「大田川(대전천 : テジョンチョン)」。福中さんが住んでいた当時は「たいでんがわ」と呼ばれていたことだろう。
大田川は福中さんが通った大田尋常高等小学校の前を流れており、その校歌にも出てくる川であり、お父さんと一緒にその堤防を散歩した川であり(詩「鉄棒」)、日射病になるまで遊び呆けたミューズのような川(詩「朝鮮戦争Ⅰ」)であった。詩集『大田という町』の最後から二つ目に「
大田川」という詩が収められている。
(上略)
大田という町に行ったら
人よ そこで一筋の川と向きあっておくれ
川あそびしているちいさな少女をみつけておくれ
(中略)
砧のひびきが空にこだまして
少女のくちびるから
花のような声がことばになってこぼれるのを見てきておくれ
大田という町に行っても
わたしはもう思い出すことはできないだろう
わたしの家が あの川上であったか川下であったか
思い出すのは
晴れた日の女神(ミューズ)のようだった清流
一雨降れば泥流が渦巻きあふれた憤怒の川
川よ おまえは見てきたか
あの戦争を見てきたか
川よ おまえは見てきたか
人間の仕業のあわれとおぞましさ
わたしが生きた時間だけ
川よ おまえも見てきたか
大田という町に行ったら
人よ わたしの名前を忘れても
一声大きく呼んでおくれ
大田川よ
おまえはまだ清く流れているか と
昨日、銀杏洞に行く用事があった。それでかつて幼い日の福中さんが水遊びをし、洗濯の砧の音がこだましていたであろう大田川の写真を撮った。水は今も清く流れている。
1928年の大田の地図に見える大田川