韓国大田(テジョン)にて

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カテゴリ:大田(テジョン)の昔( 33 )

90年以上前からある路地(大聖女子高の塀沿いの道)

大田市東区佳陽洞に大聖女子高校(1965年創立)がある。↓
http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1182971&cid=40942&categoryId=34667
地元に古くから住んでいる人はこの学校を大抵「大聖女商(대성여상)」と呼ぶ。長い間、商業高校だった。

この学校の塀に沿って細い道があるのだが、1928年発行の地図を見ていて、
この細い道が当時からあったことを知った。下の地図のオレンジ色で表示した道である。

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大田駅は赤い四角で囲っておいた。水色の部分は「蘇堤湖」で、この地図の作られた1928年にはすでに
姿を消して田んぼになっている。蘇堤湖跡のほぼ中央を貫く大東川は1927年に治水工事で掘削された人工河川である。
大聖女子高の塀に沿った道は地図の中でオレンジ色に塗った道である。
現在の地図にも同じように表示してみた。

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今日、昼すぎに運動がてら散歩したときにその道の写真を撮った。
写真を撮っていたら塀越しに授業中の先生の声と高校生たちの声が聞こえてきた。

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最後の写真はオレンジ色の道と蘇堤湖がぶつかる付近と思われる。







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by eowjs | 2017-08-30 17:56 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

大田公立高等女学校の校歌など

戦前大田にあった大田公立高等女学校の同窓会誌『楊蔭』を手に入れた。1962年の発行で、当時健在だった同窓生たちの写真や教職員や同窓生から寄せられた文章などが載っている。第13回卒業生(昭和11年3月卒業)の土屋英子さんという方の編集発行だそうだ。今のようにインターネットや携帯電話、E-mailのなかった時代に数多くの人に連絡をして原稿を取りまとめ、こうした本を作るのは本当に大変だったと思う。ちょっと見ただけでも興味深い話が少なくないが、とりあえず巻頭に載っている同校の校歌を紹介しようと思う。

大田公立高等女学校校歌

葛原𦱳 作詞
小松耕輔 作曲

1. 日毎伸びては栄えゆく
 宝文山の若松は
 たかき操をしめすなり
 希望にもゆる乙女子われに

2.国の袴の桜花
 こゝにも笑みて日に匂ふ
 雄々しくつよき遊びにも 
 やさしさあれや そのほゝえみに

3.広くはるけき大洋へ
 大田川のたえせざる
 旅をつゞくる心もて
 いそしみ学ぶ楽しき我等

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by eowjs | 2013-12-27 11:42 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

旧・大田電気会社発電所

今日銀杏洞に行く用事があり、途中仁洞の旧・大田電気会社の発電所の近くを通った。りうめい様がこの建築物に言及しておられたのを思い出してスマートフォンで写真を撮った。この建物は現在は韓国電力公社電力研究院(KEPCO)の電力線通信総合試験場となっているそうだ。(でも今日は敷地内はガランとして誰もいないようでした。)大田歴史博物館のホームページに説明がありました。説明を概訳してみます。

韓電大田補給所(登録文化財指定当時の名称:引用者注)は1930年に建てられた赤煉瓦造りの越屋根建築で、2階建ての発電所施設と3階建ての業務施設が一つに連接し、機能性が活かされているのが特徴である。構造的安全性と単純な造形美を備えた大田地域最初の近代的産業施設という歴史性をもつ。新築当時の写真により火力発電が行われていたと推測され、建物の内外部のディテールに多様なデザイン要素が駆使されている。登録文化財第99号(2004年9月4日指定)。

下の写真は安斎霞堂『忠清南道発展史』(1932)p.42に見えるもの。かなり見にくいですが。でもよく見てみると奥側の建物の長さが今と違う。あとになって建て増しされ、今に至っているのかも知れません。
こちらのページにかなり鮮明な当時の絵葉書「中天に黒煙を吐く大田電気会社発電所」と大田電気会社に関する説明があります。
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↓ 南西から見た現在の様子。建物の下のほうがクリーム色のペンキで塗られている。
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↓ 西側から見た現在の様子。
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↓ 西側からアップ。蔦がからまっている。
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↓ 南東側から。
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↓ 旧発電所の東側を斜めに通る道は今は「変電所路」という名がついている。
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↓ 旧制大田中学校同窓会(鶏龍会)発行の大田府住宅地図では「発電所」となっている。上の道路の写真は赤い矢印の方向を向いて撮ったつもりです。
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by eowjs | 2013-07-25 17:08 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

旧・大田神社

戦前、韓国の各地に神社が建てられた。日本での出身地を異にする居留民たちの心を一つにするための精神的紐帯が必要だったろうし、生活の安寧などを祈願する場所、心の拠り所が欲しかったのだろう。この心情は僕も日本人だから理解できる。大田にも神社があった。
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このうち「太神宮」は1917年に「大田神社」と名称が改められ、1928年に昭和天皇の即位大典を記念して現在の聖母女子高校の位置に遷座した。したがって遷座以前の大田神社を「旧・大田神社」と呼ぶことにする。
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1904年以降大田に移住する日本人が年々増加し、1907年ごろにはその数が約700人に達した。それで居留民らが同年4月に蘇堤山の上に社殿を創設して天照大神の神霊を祀った。これが大田神社の始まりという。この旧・大田神社は大田駅の東側、蘇堤山と呼ばれた丘陵の上にあった。現在の東区蘇堤洞である。旧・大田神社のあった辺りには住宅が密集しており、その位置を確認することすら難しい。だが蘇堤公園へと登る道、同時に旧・大田神社の参道だった道は現在も残っている。上の地図にオレンジ色の矢印で記した道がそれで、現在の様子はこんな感じになっている。↓
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この旧・大田神社の写真だが、LIONDOG様のホームページに写真があった。以前許可をいただいたので、ここに転載させていただく。
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韓国の「ノーカットニュース」というホームページにも旧・大田神社の写真があるのを見つけた。→大田にあった民族精神抹殺のための日本の神社(대전에 민족정신 말살 위한 '日 신사' 있다)。写真を見ると小さな御堂のような建物が一つ立っており、その近くに韓国人と思われる年配の男性が地面に座りキセルでタバコをふかしている。何となくのどかさが感じられる写真だ。1930年代以降の皇国臣民化政策の時代ならともかく、1907年に韓国人の民族精神を抹殺するために大田神社を建てたかかどうかはわからないが、韓国の人たちから見れば目障りな施設だったのかも知れない。

いずれにせよ、ハッキリしているのは1910年代には大田駅の東側の蘇堤山に公園があり、そこに太神宮のちに大田神社と呼ばれる施設があったということ。当時そこから西の方角を見下ろすと眼下には蘇堤湖の水面が広がり、その向こうに大田駅、そしてその周囲に建設が始まってまもない大田の町が見えたことだろう。
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by eowjs | 2013-06-30 12:55 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

白石鉄二郎氏作詞の大田小学校校歌

戦前の朝鮮の初等教育や学制に関する知識はゼロに近いが、大田の初等教育に関しては、まず朝鮮人が通った学校と日本人が通った学校があったと理解している。前者は「普通学校」で現在の三省初等学校や新興初等学校がその後身。後者は大田川にかかる大興橋(テフンギョ)のたもとにあった。1980年ごろまでは元洞国民学校として残っていたが、廃校になったという。田中麗水『大田発展誌』(1917)に日本人の通った学校の沿革が出ていたので以下に引用したい。

 明治39年(1906)4月大田小学校として開校し、41年(1908)12月大田居留民会立尋常高等小学校と改称し更に45年(1912)4月に大田尋常高等小学校と改む。大正3年(1914)より高等科女子補習科を併置す。開校当時17名の入学生徒数なりしも大田の市勢発展に伴ひ年々就学生増加し大正6年(1917)4月末に於て568名の生徒数となり(中略)狭隘なるを以て埋立地に二階建130坪の校舎を新築する計画なり。
 大田小学校の校歌として第二期管理者白石鉄次郎(ママ)氏の著作になる校歌は左の如くなるが以て大田小学校の紀念たるべし。

大田公立尋常高等小学校校歌 井上通泰 校閲 白石鉄次郎 作詞 田村虎蔵 作曲

一、対馬水道、わたり来て、第二のふるさと、つくりたる、父母の努力を、おもひ見よ、大陸かけて、みちわたる、君が御稜威を、あふぎ見よ、われらは幸ある、身ならずや。

一、鶏龍山は、たかけれど、よづるにかたき、ものならず、まなびの道は、とほくとも、うまずたゆまず、いざゆかん、大田川の、かたときも、やすまぬ水を、かゞみにて。

一、心をみがき、身をきたひ、つよくたゞしき、人となり、名をあげ家をも、興してん、あやに尊き、大君の、しこの御楯と、なりぬべく、いざやはげまん、もろともに。
『大田発展誌』pp.37-39より

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by eowjs | 2013-06-29 12:54 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

東光橋について(りうめい様へ)

りうめい様

はじめまして。「東光橋」に関する記事にコメントくださり、どうもありがとうございます。まず、お返事が遅くなってどうもすみません。お返事をコメント欄に書き、アップロードしようとしたら文字数をオーバーしているとエラーメッセージが出ましたので、こちらのブログ本文に書くことにしました。

白石鉄二郎氏の名前は大田の歴史に関する本でしばしば目にしますものの、僕は断片的な知識しか持っていません。たとえば1915年に大邱との陸軍部隊の誘致合戦に敗れて学校組合管理者を引責辞任したこと、1921年ごろに大田では「長老」と呼ばれていたこと、1932年に忠南道庁が大田に移転してきたとき移転祝賀会の会長を務めたこと(以上、田中麗水「新興大田の回顧」『釜山日報』1932年の新聞連載記事)

大田居留民会の後進である大田学校組合の第二期会長(1913-1915)としてさまざまな施策に取り組んだこと(田中麗水(1917)『朝鮮大田発展誌』pp. 30-32)

「白石農場」は大田の果樹園の中で規模が大きく、同園の苹果紅玉が朝鮮施政5年紀念物産共進会で金牌を受領したこと、(同上書p.86)

1930年代中盤に大田建設の功労者とされていたこと(安齋霞堂(1932)『忠清南道発展史』湖南日報社p.37) ぐらいでしょうか。

下関商人の白石正一郎氏との関係についてですが、名前等からして、もしかすると親戚かと推測するぐらいで、今の僕は全く知るところがありません。お役に立てずどうもすみません。

つぎに東光橋の名前の由来です。りうめい様は白石鉄二郎氏が山口出身で、その親族かもしれない白石正一郎氏宅の近くに東光寺がある。鉄二郎は故郷のお寺の名前にちなんで大田の橋に「東光橋」と名付けたのではないか、と推測なさっているのですね。

白石鉄二郎氏は1925年6月に大田面長になっており、大東川の治水工事も彼の在任中のことなので、自分の故郷にちなんで名付けた可能性は十分にあると思います。ただ、それを証明するには史料を探す必要がありますね。韓国の国家記録院に「大田治水及下水改修工事施行及国庫補助書類」(1927年および1928年)という文書があるそうです。僕は見たことがないのですが、もしかするとこのような資料に橋の名前の由来などに関する情報があるかも知れません。

「東光橋」の名前の由来について、もう一つの可能性として提示できるのが、「東光」という地名に由来するというものです。橋の2キロほど東北方向に「東光山」という山があり、そのふもとの集落をかつて東光マウルと呼んだそうです。(大田直轄市(1994)『大田地名誌』p.310)今は東光初等学校という学校名にのみその名残をとどめていますが、西南の方から来た人が東光橋を渡り道に沿ってまっすぐ行くと方向的にはその東光という集落に至るので、もしかするとそれに何か関係があるのかも知れません。

はっきりしたことはわからないのですが、とにかくりうめい様、大田の歴史に関心を持ってくださってコメントくださりありがとうございます。コメント欄のお名前の部分のリンクを通じて韓国の近代建築に関するすごく内容のすぐれたブログを運営しておられることを知りました。また遊びに行かせてもらいますね。長くなりました。今回はこれぐらいにしておきます。
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by eowjs | 2013-06-24 12:16 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(4)

終戦時の忠清南道知事 4

前回と前々回に続いて1945年8月に忠清南道知事として大田(テジョン)で終戦を迎えた朴在弘氏のインタビュー(原文韓国語)をここに載せます。今回が最終回です。

とにかく私が忠清南道の道知事として在任中に一番やりがいのあった仕事は軍隊の米をもらい受けて市民の飢餓問題を解決したことだ。「皇軍」と呼ばれた日本の米を取り上げてきたのは私だけだったと思う。

終戦だが、8月14日に総督府から前もって連絡があった。明日の正午に天皇のラジオ放送があるから聞くようにとのことだった。私は直感的についに日本帝国の最後がやってきたかと思った。翌日、すなわち8月15日に私は知事室から他の人たちを出てゆかせ、一人で12時に天皇の放送を聞いた。果たせるかな私の思っていた通り日本が連合軍に無条件降伏するという内容だった。

その瞬間、 私は目を閉じて35年間の私の官職生活を振り返り、栄光と屈辱の日々を反芻してみた。ほんとうに忠南道庁の知事室における1945年8月15日のその瞬間は私の血を凍らせるような永遠に忘れられない瞬間だった。

即刻各部長を呼んですべての傘下職員らに米軍が進駐してくるまで持ち場を離れずに与えられた任務を忠実に遂行するよう指示した。特に経理関係をちゃんと整理して公的であれ私的であれすべての債務関係をきれいに清算するようにと言った。

8月15日の夜、大田の唯一の地方新聞だった「中鮮日報」が民族解放と日本の降伏について詳しく報道した。この日の記事は全部ハングルで書かれていたが、忠南道民らは久しぶりに目にするハングルに解放を実感し、感激した。 (了)



原文URL

http://cihc.or.kr/hi.do?brd_id=cihc_0403&lst_idx=2821&lst_upidx=2821&menu_id=menu1&svc=ArticleView
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by eowjs | 2013-01-07 11:00 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時の忠清南道知事 3

前回に続いて1945年8月に忠清南道知事として大田で終戦を迎えた朴在弘氏のインタビュー(原文韓国語)をここに載せます。


郡庁に勤務していた私に日本人がしきりに判任官試験を受けてみなさいと言うのでソウルに行って試験を受けたところ運良く合格した。そして33歲のときに咸鏡道の豊山郡守に任命された。1942年には平安南道の産業部長に昇進した。

そんなある日、総督の主宰で全国産業部長会議が朝鮮総督府で開かれた。この会議で私は敢えて総督府の食糧政策と米穀増産施策の問題点をひとつひとつ指摘した。すると総督は私を叱責するのではなく、後で呼び出して誉めてくれた。そしてしばらくしてその総督は日本本国の首相に栄転したのだが、(注:第8代の小磯国昭総督か)朝鮮を去るときに後任の総督に「朴在弘を道知事に昇進させるように」と話したという。こうして後任の総督は(注:第9代の阿部信行総督か)私を1944年6月に忠清北道の道知事に任命した。私が忠北知事として赴任するやいなやぶつかった問題が搾取に近い米の供出問題であった。

戦争が終局に向かうと各地方の民心は非常に動揺し、特に忠清南道はそれがひどかった。総督府では忠清南道の民心収拾のために地元(注:論山)出身の私を抜擢した。しかし1945年6月25日に忠南知事として大田に赴任してみると、やはり食糧不足が問題となっており、たいへん気が重かった。

忠南では米が非常に稀少になっていた。私は非常手段として大田に駐屯していた日本軍の連隊長に会った。連隊長は「たしかにこんなにたくさんの米を持っている必要はないですね」と言ってその場で米300俵をくれた。ところが数日後に解放された(注:日本の敗戦で太平洋戦争が終わった)のだが、戦争が終わってみてその連隊長がこんなにたくさんの米は必要ないと言った理由が理解できた。(つづく)



原文URL

http://cihc.or.kr/hi.do?brd_id=cihc_0403&lst_idx=2798&lst_upidx=2798&menu_id=menu1&svc=ArticleView
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by eowjs | 2013-01-04 11:24 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時の忠清南道知事 2

1945年8月、終戦時の忠淸南道知事であった朴在弘(日本名:増永弘)氏。新聞記者出身で現世宗市政務副市長の邊平燮氏がその朴氏に対し1975年5月に行ったインタビューを紹介するページ(韓国語)をインターネットで見つけた。その内容をかいつまんで紹介したい。以下の文章の「私」は朴氏。

 父は抗日義兵將として長く日本と戦っていた。父は抗日運動家なのにその息子は日本統治下の朝鮮で道知事を務めたのはアイロニカルなことである。しかしそれにはそれなりの理由がある。

 17歳(注:数え年だろう)のとき抗日闘争をしていた父が腸チフスにかかり当時論山にあった家に戻ってきた。そしてその後を追って日本の憲兵らが飛び込んできた。彼らはふとんをかぶって寝ている父を連行しようとした。私は言った。「おまえたちの見るように父は今病気である。その父を連れて行くのか。どうしてもというなら代わりに私を連行せよ」と。すると日本軍の伍長が「お前はまだ幼いから」と最初は拒否したが結局は根負けして私を連れていった。そして数日後にまだ子供であるという理由で釈放された。

 それでうちに戻って日本語を勉強していたのだが、日韓併合となってほどなく郡庁から私を呼びに来た。行ってみると郡庁で日当20銭を与えるので日本語の通訳をせよとのことだった。それほど当時は日本語ができる人がいなかった。そのころ土地分割事業が進められていたが日本人との意思疏通ができず韓国人の中には損をする人が多かった。私はこれらの韓国人のために働けるチャンスだと思い郡庁の臨時通訳職となった。これが私が日帝のもとで官吏として第一歩を踏み出したきっかけである。(つづく)

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by eowjs | 2013-01-03 14:21 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

1945年8月15日 終戦時の忠清南道知事

以前、第二次世界大戦終戦時のテジョンの状況について、森田芳夫氏の『朝鮮終戦の記録』を引用したことがある。(http://shinkiku.exblog.jp/11941444/)それは、

忠清南道の幹部がはじめて終戦を知ったのは、8月14日午後10時ごろとされている。(中略)15日正午、詔書拝聴後に増永弘(朝鮮人)知事の訓示があり、終わって日本人職員は解散したが、知事以下の朝鮮人職員は、居残って何やら申し合わせ、やがて朝鮮語で万歳の叫びをあげた。(中略) 道庁内には、朝鮮人職員により忠清南道行政委員会が生まれ、日本人退陣後の部課長を決定していた。知事は、道庁職員の面前で殴打され、官舎にひきこもって出勤しなかった。

という内容であった。この終戦時の忠清南道知事の増永弘氏(韓国名:朴在弘)について気になっていたのだが、ネット上で同氏に対して1970年代に行われたインタビューの内容が公表されているのを見つけた。その内容を紹介したいのだが、それに先んじて今日はその朴在弘氏のプロフィールを見てみたい。

박재홍(パク・チェホン, 朴在弘, 日本名:増永弘, 1892年1月15日 ~ 1977年2月18日)

1911年に忠清南道魯城郡の臨時職官吏に採用され、朝鮮総督府の官吏となる。同年末に判任官見習として採用され、1912年に正式に郡書記になり魯城郡にて勤務した。以後青陽郡財務係を経て咸鏡南道洪原郡などで勤務した。

1923年には忠清南道内務部地方課勤務の辞令を受け、翌年高等官8等の総督府郡守に昇進した。咸鏡南道豊山郡に郡守として赴任し、1931年には日本政府から勳6等瑞宝章を授与された。

豊山郡、新興郡、永興郡(いずれも咸鏡南道)の郡守を経て1934年には高等官5等の朝鮮総督府理事官に昇進、咸鏡南道内務部産業課長となった。同年末には高等官4等に昇級とスピード昇進した。咸鏡南道理事官であった1935年には総督府が施政25周年を記念して表彰した表彰者名簿にもその名が見える。

以後、平安南道参与官を経て太平洋戦争の終戦直前には道知事にまで昇進した。平安南道参与官であった1943年に従5位勳4等に敍位されている。太平洋戦争の終戦当時には忠清南道知事として在職中であった。


参考ページ

韓国国史編纂委員会 韓国史データベース
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=im_106_10216

韓国語版ウィキペディア
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%95%EC%9E%AC%ED%99%8D_(1892%EB%85%84)
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by eowjs | 2013-01-02 18:01 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)