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韓国大田(テジョン)にて

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カテゴリ:大田(テジョン)の昔( 32 )

80年以上前からある城南洞交差点の斜めの道

今朝、出勤途中に自転車で東区の城南洞 (ソンナムドン)交差点を通りかかった。普段はここは通らないが今日は佳陽洞(カヤンドン)交差点の薬局に用事があったので途中通った。信号待ちをする間に写真を二枚撮った。↓
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この道は1928年の大田の地図で見ると、オレンジ色の矢印(↓)を表示した点線の道だ。現在のバス通り の広い道(青と緑)ができる以前からあった道だ。地図記号がよくわからないが、縦のチョンチョン二本は田んぼだろう。交差点付近の記号はよくわからない。畑か何だったのだろうか。地図中の緑色と青色の道がクロスする所が城南洞交差点。写真をよく見ると奥右手にかなり古い木造家屋がある。それから交差点をはさんで反対側を見た写真はこちらである。↓
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交差点の角、パリバゲットと1001メガネ店の間に斜めに細い道の入り口が見えるが、これが古くからある道だ。しばし80年前の細い道に姿に思いを馳せる。でも想像することは容易ではない。

by eowjs | 2012-11-09 17:25 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時のテジョン(その3)

今日は終戦直後のテジョンで日本人がどのような対応をしたのかを『朝鮮終戦の記録』を通じて見てみます。以下、引用です。

日本人の一般市民側では、大田在郷軍人分会が、戦時中から統制ある活動を続けてきたが、終戦と同時にますます積極的な動きをみせ、自警団を組織する一方、各機関と連絡して日本人の保護に乗り出した。これは、8月下旬に大田日本人世話会が生れて、その組織の中に吸収された。世話会の事務所は春日町の某営団内に設けられた。会長には当初南鮮電気支店長青柳八百造氏が当り、富士平・辻万太郎、市岡米男氏その他の諸氏が部長になって奔走した。後に道の内務部長麻生憲治氏が青柳氏に代って会長になり、最後の引揚まで献身的に尽力したのであった。


発足当初に大田日本人世話会の会長となった青柳八百造氏は『朝鮮都邑大観』(昭和12年版)によると

 大田電気常務たる青柳氏は電業界の重鎮として知られてゐるばかりでなく、公人として忠清南道になくてはならぬ人物として、公共的方面に貢献するところ顕著なものがある。大分県の人、在鮮既に30年朝鮮の開拓に殆ど全力を捧げ大田消防組頭、商工会議所特別議員等その他多くの公職を有し、寧日なき活躍を続け、過半の南鮮電気統制に際しても立役者として卓越せる手腕を発揮してゐる。

とある。終戦当時にはの大田居住の日本人の中でも長老格であったのだろうか。次回は日本人世話会の部長のうち辻万太郎氏についてご紹介させていただきたい。(つづく)
by eowjs | 2010-01-27 14:30 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時のテジョン(その2)

前回につづいて『朝鮮終戦の記録』から終戦直後の忠清南道の状況を要約引用してみます。

8月16日「中鮮日報」が「東辰共和国建設」を報道
同日夕刻「ソ連軍進駐し来る。先発隊が夕刻大田駅に到着する。大田市民は各戸一人ずつ駅前で歓迎せよ」とのデマが飛んで大田駅前は数千人の民衆でうずまる。結局ソ連軍は来ず。
大田刑務所では中央からの指示により政治犯・思想犯の一斉釈放が行なわれた。その後殺人や強盗等の凶悪犯が多数脱獄、市民を不安におののかせた。
建国準備委員会の傘下に「治安隊」が組織されて大田の青年の有力分子が糾合され、警察に治安の協力を申し出た。彼等が大田府内の駐在所に配置された。

―石井治助(忠清南道高等警察課長)*「同和」第158・159号(昭和36年2・3月)。昭和22年11月26日、東京にて談話聴取。―

森田芳夫・長田かな子(1979)『朝鮮終戦の記録』資料篇第1巻 巌南堂書店. より


上に見える大田刑務所は現在の中村洞の現代アパートと大田入管の位置にあった。入管の敷地の片隅には当時の監視用望楼が今も残る。
by eowjs | 2010-01-26 16:45 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時のテジョン(その1)

『朝鮮終戦の記録』を読むと、今から65年前の終戦時の大田の様子の一端を知ることができる。以下、その一部を引用してみる。

7 南朝鮮各道の状況

1 忠清南道 石井治助(忠清南道高等警察課長)*「同和」第158・159号(昭和36年2・3月)。昭和22年11月26日、東京にて談話聴取。

 終戦を初めて知ったのは、8月14日午後10時頃である。ポツダム宣言の条文およびその受諾に関する詔書の放送があることが、同盟通信を通じて、大田の中鮮日報に入ってくるとともに、その内容が道の警察部に内報された。
 まだ公式には、なんらの情報をも得ていなかったが、とりあえず、警察部長大久保清和氏官舎に、部内各課長を召集して緊急会議を開いた。まず管下各署長に電報を発して、未曾有の難局にあたり、陛下の直接の重大放送があること、日本国民としては、国体の維持のみが許された最後の一線であって、国家の再建については、ただこれを子孫に託するほかに方法のないことを述べ、日本の敗戦を言外に伝えて、それに対処する精神的準備と治安維持に対する決意を促したのであった。部長官舎の会議は徹宵つづけられた。
 翌8月15日に総督府から公式の通告があり、知事増永弘氏(朝鮮人)以下が登庁して、悲痛の裡に天皇陛下の終戦のラジオ放送を謹聴した。やがて、全庁員は大会議室に集合し、知事から訓示があり、とくに正当な政権に引継の完了するまでは、各自その職域にあって責任を完遂すべきことが力説された。終って日本人職員だけは、解散したが、知事以下朝鮮人職員は、居残ってなんらかの申合せを行ない、やがて朝鮮語の万歳の叫びがあげられた。(つづく) 


森田芳夫・長田かな子(1979)『朝鮮終戦の記録』資料篇第1巻 巌南堂書店. pp.380-381 

上記引用文中の『中鮮日報』は大田にあった新聞社。昭和10年に『三南新報』と『湖南日報』が合併して『中鮮日報』となったのであるが、この時に社長として迎えられたのが富士平平氏である。4頁の紙面に9ポイント活字を使用して朝刊を発刊していたという。富士平平氏は終戦直後の8月下旬に組織された「大田日本人世話会」の主要メンバーとして日本人の引き揚げなどに奔走したと記録されている。
by eowjs | 2010-01-22 16:26 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

戦前の大田小唄(その②)

前回に続き『朝鮮都邑大観』(昭和12年)所載の「大田小唄」の後半部(4番~6番)を紹介する。
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  ↑昭和初期の大田駅前春日町通り(現在の中央路)の様子

4. 夜街カフエーの鈴蘭燈は ヨツホホホイ
  ジヤヅのひゞきで咲くのやら 咲くのやら 
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい

5. 艶に浮かんだ鷄龍山に ヨツホホホイ
  思ひ焦した西の空 西の空
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい

6. 今日も蘇堤で 空飛ぶ球は ヨツホホホイ
  可愛お方が打つのやら 打つのやら
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい


まず4番の「カフエー」である。昭和初期には「カフェ」は女給のいる洋風の酒場のことを言ったらしい。戦前の大田には駅前の「春日町」にいくつかあったようだ。上掲の絵葉書の左の方に「土井洋服店」の看板が見えるが、その手前8軒道庁寄りに「有明カフェー」が、また現在の中央市場(チュンアンシジャン)内であるが、タビチ眼鏡院の裏手あたりに「カフェーアトラス」があったという。店内ではSP盤の「ジヤヅ」がかかっていたのだろう。「鈴蘭燈」は昭和初期に街路灯のデザインとして流行したという。上の絵葉書にも左手に見える。今の街灯よりも粋だ。それから正面に見える大田駅の駅舎も現在の建物より洒落ていると思うのは僕だけであろうか。

5番の「鶏竜山」は標高845メートル。現在は一帯が「鶏竜山国立公園」に指定されている。大田・忠清南道地域を代表する名山である。

6番の「蘇堤で空飛ぶ球」というのはこれだけでは何のことかわかりにくい。「蘇堤」とは大田駅の裏手、東側一帯に現在も蘇堤洞(ソジェドン)の地名が残っている。現在「鶏竜工業高校」のあるソルラン山が戦前は「蘇堤山」と呼ばれていた。その麓、京釜線の線路との間に野球場があったのである。
by eowjs | 2010-01-16 12:07 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

大田小唄(1番から3番まで)

『朝鮮都邑大観』(昭和12年)という本がある。ずいぶん前に元洞の古本屋で買った。裏表紙に「東洋拓殖株式会社大田支店」と印が押してある。「東洋拓殖株式会社」とはいわゆる「東拓」で、大田支店の建物は現在も元洞と仁洞の中間あたりにある。その本の「大田府」の項に「大田小唄」という歌の歌詞が載っている。1番から6番まであるが、今日はこのうちの1番から3番までを紹介する。

「大田小唄」
1. モタダン大田半島の都
             ヨツホホホイ
並ぶ五つ橋花の中 花の中
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい

2. ひとつ蛇の目で片袖濡らす
             ヨツホホホイ
うれし中橋春の雨 春の雨
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい
 
3. 櫻花浮く盞あげて
          ヨツホホホイ
下旬の卯月の軍旗祭 軍旗祭
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい

1番の「モタダン大田」の「大田」は「テジョン」ではなく「たいでん」と読むのだろうが、「モタダン」という語の意味がわからない。『日本国語大辞典(小学館)』にも見出し語としては出ていない。あるいは「モダン」の誤植であろうか。「並ぶ五橋」とは大田の中心部を流れる「大田川」にかかっていた橋で、南から「宝文橋」「大興橋」「中橋」「大田橋」「栄橋」である。今でこそ大田川にはたくさん橋があるが、昭和12年には5つの橋があったのであろう。昭和3年の地図を見ると「宝文橋」と「栄橋」はまだない。「大田橋」は「木尺橋」として現在復元が進められているようだ。残りの4つの橋は今も名前はそのままである。

2番の「中橋」は上でも見たように5つの橋の一番真ん中にあってその南詰めのたもとには今「패선마트1004」というファッションビルがある。その橋のある通りを「중교통」と呼ぶことがある。「中橋通り」である。

3番に見える「軍旗祭」は「ウィキペディア」によると旧日本陸軍で各歩兵・騎兵連隊が開催していた行事で、開催日はその連隊に軍旗が天皇から下賜・拝受された日、若しくはその日の前後という。この日は一般市民らに連隊を盛大に開放し、連隊の各中隊は出店を開いたり力の入ったセットを作ったり、仮装行列や様々な余興を開く等して訪れた市民達を大いに沸かせたという。

大田には朝鮮軍(第20師団)の歩兵第80連隊第3大隊が駐屯していた。今の位置で言うと、セイ百貨店の隣にあるホームプラスの位置である。(歩兵第80連隊の本隊は大邱に駐屯)歩兵第80連隊は1916年(大正5年)4月18日に創設されており、軍旗拝受もこの時である。大田での軍旗祭は4月21日に行なわれていたようだ。歩兵第80連隊は第二次大戦ではニューギニアのフィンシュハーフェンの戦いの記録などにその名が見える。大田から出征した多くの将兵が食糧弾薬不足に苦しみつつ圧倒的な戦力を持つオーストラリア軍と戦ったことであろう。
by eowjs | 2010-01-15 16:41 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

朝鮮戦争当時の「城南荘事件」

朝鮮戦争勃発2日後の1950年6月27日から7月15日まで、大田(テジョン)は韓国の臨時首都だった。李承晩大統領が夫人フランチェスカ女史や政府要員らと大田に避難してきたのである。当時大統領は忠清南道知事官舎(←現存)に滞在したという。そのときに所謂「城南荘事件」が起きた。

「城南荘」は当時大田にあった大きな旅館で、敷地は3千坪もの広さがあったという。(児島襄『朝鮮戦争』①文春文庫) 韓国政府が大田に移った際に閣僚らがこの旅館に入った。ところが南進する北朝鮮人民軍が京畿道の平沢を占領したという知らせに閣僚らは浮き足立ち、一般市民らにその情報を知らせることもなく自分たちだけ全羅道の全州まで逃げたという。

その後、平沢陥落が誤報と知った彼らは再びこっそり大田に戻り「城南荘」に入ろうとしたところ女将が投宿を拒否したらしい。これが世に言う「城南荘事件」である。これが「事件」と呼ぶにふさわしい出来事かどうかはともかく、為政者がこれでは力のない一般国民はたまったものではない。「ノーブレス・オブリージュ」という考え方は韓国や日本に当てはまらないものと認めざるを得ない。

今も大田市東区、大田駅の北東側に「城南洞(ソンナムドン)」がある。「城南荘」はこの城南洞の一角にあったのであろうか。機会があれば正確な位置をお年寄りに尋ねてみたい。

最後に韓国人の名誉のために、李始栄副大統領のように『城南荘』でいくら他におかずがたくさんあってもチゲとキムチ以外には箸をつけなかった閣僚もいたという事実も付記しておく。

追記:その後、目にした資料によると、「城南荘」は大田にあった大きな「旅館」ではなく「料亭」だったようです。(2017年8月24日)

追記2: 大田市の文化財解説員をしておられるBさんによると城南荘は城南洞交差点から龍田洞交差点方面へ数100m行った右側の現在大田東部信用協同組合がある場所に位置していたそうです。

この場所は1905年に第2次日韓協約に抗議して自決した学者の宋秉璿(1836-1905)の家があったという。この事実を知って以来その前を通る時に粛然とした気分になります。(2019年3月23日)

by eowjs | 2009-01-10 20:44 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

大徳(テドク)研究開発特区について

大徳(テドク)研究開発特区は2005年9月に「大徳研究開発特区などの育成に関する特別法」により研究開発特区に指定された地区で、大田(テジョン)広域市の儒城(ユソン)区と大徳(テドク)区の32の法定洞にかけて所在している。特区内には「大徳研究団地」「大徳テクノバレー」なども含まれている。

大徳(テドク)研究開発特区には国公立および韓国政府出資研究機関が19機関、政府投資機関の研究機関が7機関、企業付属研究機関が32機関、大学が5大学立地するなど韓国最大の研究機関の集積地となっている。

この大徳(テドク)に同地域のニュースを発信するインターネット新聞「大徳ネット」がある。
http://www.hellodd.com/Kr/Index.asp

私は2004年からこの「大徳ネット」の記事を一日に一本ずつ日本語に翻訳してアップロードしている。日本語版のメインページは

http://www.hellodd.com/japan/

である。これから折を見てときどきその記事を紹介してゆきたいと思う。

なお、大徳研究開発研究特区については以下に詳しい。
http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat125j/pdf/mat125j.pdf
by eowjs | 2008-12-11 09:42 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

有田焼と李三参と大田(テジョン)

儒城(ユソン)から国立墓地を右に見て公州に向かって走るとやがて三叉路が現れる。そこを左に曲がると鶏竜山(ケリョンサン)東鶴寺(トンハクサ)に至るのだが、三叉路の右手山側に石碑がある。李参平を顕彰する碑だ。李参平は秀吉の時代、文禄慶長の役の際におそらくは連行される形で日本に渡り、佐賀の有田焼の始祖となった。その李参平がこの近辺に住んでいたという。毎年有田からも少なからぬ人々が「陶祖」を偲んでやって来るとのことだ。

先日大型マート「ホームエバー」儒城店の生活雑貨売場で偶然見つけたのが「有田焼」のお皿だ。この店から李参平の石碑のある三叉路までは車で10分ほど。彼もまさか自分が日本に渡って創始した焼き物が興隆して自分の故郷にまで輸出されることになろうとは思っていなかったことだろう。

大田のD高校の国史(=韓国史)の先生をしているCさんとはひょんなことから知り合いになり家族同士でおつきあいしているのだが、この李参平の石碑を案内してくれた。その後ですぐ近くにある古窯址にも連れて行ってくれた。のみならずCさんは鶏竜山粉青沙器(プンチョンサギ)関連の書籍を数冊くれた。私は前もって準備しておいた有田焼のお皿をプレゼントした。
by eowjs | 2008-09-27 19:31 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

旧・朝鮮殖産銀行大田支店

先日、銀杏洞に行った際に旧・朝鮮殖産銀行大田支店の建物にメガネ屋が入居したことを知った。以前は産業銀行だったが、屯山移転後は一時空き家となり、その後は大田郵便局が一時的に入っていたようだ。
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この建物に関しては詳しい説明が↓にある。
http://home.mokwon.ac.kr/~cdkim/3works/works-detail02-01-01.htm

翻訳は以下の通り。翻訳に際して文章の構成、用語を若干変えた。

旧朝鮮殖産銀行大田支店
大田(テジョン)市東区中洞92-1に位置する旧産業銀行大田支店は地下1階、地上3階の鉄筋コンクリートラーメン構造で、下部は花崗岩、上部はタイル·テラコッタで仕上げられており、古典的ルネッサンス風の大田地域を代表する近代建築物の一つである。

2002年5月31日に登録文化財第19号に登録されたこの建物は垈地面積1,668.40㎡、建築面積582.88㎡(建蔽率:34.9%)、延べ面積1,291.76㎡(容積率:77.4%)の規模で、朝鮮殖産銀行営繕係が設計を行った。

日本人が大田地域の経済権を掌握するため、1912年に(株)漢城銀行大田支店を設置したその場所に1918年10月に朝鮮殖産銀行大田支店が新築された。

現在の建物は1936年10月に着工され、翌年12月に竣工した。当初は1階建てだったが、1989年に改築した際に暖房の必要性から室内の高い階高を2つの階に分け、床の木製タイルを撤去して煉瓦と鉄筋コンクリート造とし、地下があった木造の附属舎も2階建てに変えられた。

前後面と両側上部の端にあるテラコッタの花型装飾と前面上部の柱の上の部分の丸い四つの花模様の装飾はこの建物の品位を高めている。

概してこの建物が建てられた当時の他の銀行の建物と前面の形式は似ているがガラス窓が大胆と言えるほど大きく、部分的なディーテールは更に細密に構成されており柔らかく華麗な印象を与える。

解放後には韓国産業銀行の大田支店の建物として使用された。同銀行は産業開発と国民経済発展の促進のため重要産業資金を公共管理することを目的に1954年に設立された長期開発金融機関である。

1997年5月に大田支店を屯山洞に移転するにあたり銀行側の意向で撤去、売却されることになったが、建築史的価値が評価され存置されている。現在、建物は使用されていない状態である。
by eowjs | 2006-01-03 11:51 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)