韓国大田(テジョン)にて

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お墓参り

Y先生とM先生と一緒に、かつて大田(テジョン)に住んでいた日本人1500柱も合葬されている「弘道塚」へ墓参に行く。1945年にこの地で妹を亡くされた福岡のIさんは今年はいらっしゃらないが、今年も墓参できてよかった。赤とんぼがたくさん飛んでいた。写真の左隅に見える石碑は2005年の4月に新しく建てられたもので、大田市が予算を使って立派に管理してくれていることがわかる。この地に住んだ日本人の冥福を祈った。

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by eowjs | 2005-06-29 15:16 | 大田(テジョン)の今 | Comments(0)

蘇堤湖 関連説話


むかし、蘇堤湖のあるあたりに長者が住んでいた。部屋数が99もある広い屋敷があったというから、たいした金持ちだったようだ。その昔、この長者のお爺さんはケチで有名な人物だった。人をまるで牛でも扱うようにこき使い、ご飯のおかずも段々減らしていったので、年老いてからは食事の際のおかずといえば醤油をなめるだけだったという。意地悪で気が荒いうえ自分が損をすることは絶対しようとはしない、そんな人だった。

ある日、小作人に牛小屋の積み肥やしを片付けさせていたのだが、その時一人の坊さんが托鉢にやってきた。家に入ってくるものは好きだが、出て行くのはいやだという長者は坊さんのほうへ走り寄ると小作人の持っていたくわを取って肥やしを托鉢の鉢に入れてしまった。だが、坊さんは何も無かったように恭しくお辞儀をして

「南無阿弥陀仏。観世音菩薩」

と合掌してその場を立ち去った。坊さんの鉢に肥やしを入れるのを台所から見ていた嫁が坊さんの泰然とした様子に驚き、即座にお米をどんぶりに一杯分前掛けに隠して、勝手口から飛び出し、遠くに去ろうとする坊さんを呼び止めた。

「拙僧をお呼びになりましたか ?」

坊さんが嫁をじっと見据えると、嫁は坊さんの鉢に米を入れて帰ってきた。

「かたじけない。南無阿弥陀仏」

お坊さんは帰って行く嫁を見ながら歩き出したがふと振り返り、嫁を呼び止めた。

「一つだけ教えてあげるのでよく覚えておいでなさい。明日の朝、機織りの機を持って前の山にお登りなさい。きっとよいことがあるはずです。しかし、ひとつだけ気をつけねばならぬことがあります。それは山に登るときに後ろからどんな音がしても絶対に振り向いてはいけないということです。」

坊さんはこう言って足早に去って行った。

次の日、嫁は坊さんが言った通り機を抱いて山に登り始めた。嫁は後ろを振り向いてはいけないという坊さんの言葉通り前をみて登っていった。もう少しで頂きというところで突然空が暗くなり始めた。上に行くほど空は暗くなり、雷が鳴りはじめ、だんだんそれが近づいてきた。それでも嫁は振り向かなかった。

雷の音がすぐそばまで近づいてきて、今にもここに落雷するかと思った。

その時嫁は坊さんの言いつけを忘れて後ろを振り返ってしまった。

先ほど自分が出てきた屋敷に雷が落ちて家は粉々になり、その上にまるで大海原の波のような大きな波が空から降ってきて屋敷のあった辺りに池が出来ているではないか。

嫁が呆気に取られて家の方角へ歩き出したその時、今度は先刻よりももっと大きい音がして雷が落ち、その瞬間、嫁は岩になってしまった。

機を抱いて走りだそうとするそのままの姿をした岩にである。

長者の屋敷があった辺りは大きな池となり、堤には芹がたくさん生えたという。まるで長者の家の穀物倉に山と積まれた穀物が肥やしになったかのようによく育ったという。

大田広域市東区庁のHPより
http://www.donggu.daejeon.kr/munhwa/sulhwa9.html
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by eowjs | 2005-06-28 14:45 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

蘇堤湖

現在、大田(テジョン)市東区には蘇堤洞(ソジェドン)という地名がある。おおまかに言うと大田駅の裏側、北東の方角にあたる。以前からその地名の由来について知りたいと思っていたが、
偶然の機会に昔そのあたりに「蘇堤湖」という湖があったということを知った。韓国語では蘇堤防築(ソジェバンジュク)と呼ばれたらしい。防築というのは土手、堤防というような意味という。

左の地図は1910年代のものらしいが、はっきりと「蘇堤湖」の位置が記されている。一般に「蘇堤」というと中国杭州の西湖を東西に分けるように造られた堤(蘇東坡が作らせたという)が有名なようだが、大田の「蘇堤」も湖を二分するかのように横たわる堤を言ったものだろう。もしかすると中国のそれに似せて作られたのかもしれない。現在では付近は市街化しておりその姿は確認できないが、1928年の地図を見ると水田の中に湖の形を確認することができる。恐らくは1920年代の治水工事により干拓されたのだろう。
またこの蘇堤防築のほとりにあったという「宋子故宅(宋時烈の旧居)」は現在も残っているので湖の位置を大体知ることができる。
すでに触れた宋時烈の八景にも
蘇堤採蓮: (蘇堤湖で蓮を採る風景)
とあったように、かつては夏になると風に蓮の花が揺れる趣のある場所だったのであろう。

現在の地名で言うと、大洞(テドン)五叉路と城南(ソンナム)交差点の中間あたりだ。

現在は蘇堤湖があった位置を貫流するかたちで大東川が流れている。↓

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by eowjs | 2005-06-27 15:09 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

「琴巌」を見に行ったが…

昨日の夕方、
宋時烈の八景にある「琴巌晩笛: (琴巌の笛の音)」の
「琴巌」を見ようと同春堂公園へ行った。

現在は小大軒の前に移されているという。が「小大軒」がどこにあるか
わからず結局見られなかった。

もっとよく調査してからゆくべきだった。

今日はアパートの商店街の建物の中にある
歯医者へ行った。歯医者へ行くのはどうだろう。10年ぶりぐらいではないだろうか。
スケーリングと虫歯治療(奥歯と親知らず)をした。スケーリングが5万ウォン、虫歯が
一本6000ウォン×2本で12000ウォン。アガッシが2千ウォンまけてくれて結局6万ウォン
払った。
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by eowjs | 2005-06-25 13:19 | つぶやき | Comments(0)

大田八景(旧 その二)

尤庵 宋時烈の大田八景

鶏岳宿雲: (鶏足山に宿る雲)
竜山落照: (鶏竜山の夕陽)
蘇堤採蓮: (蘇堤湖で蓮を採る風景)
椧坪挿秧: (椧坪の田植え)
石村炊烟: (石村の炊煙)
甲川漁火: (甲川の漁り火)
花菴暁鐘: (花菴の暁の鐘の音)
琴巌晩笛: (琴巌の笛の音)


「椧坪」は現在の大徳区宋村洞ホムトンゴル(홈통골)という。「홈통」は龍田洞イルヤン(일양)薬品と大韓赤十字血液院の間にある集落だそうだ。東部交差点の近くだろう。

「石村」は現在の東区城南洞のことだそうだ。

「花菴」は不明。

「琴巌」は宋村とヤンジマルの間の渓谷にあった。同春 宋浚吉がこの岩で弟子たちと自然を樂しんだという。現在は小大軒の前に移されているという。今度見にいってこよう。



「蘇堤」湖についてはいずれ詳しく触れたい。
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by eowjs | 2005-06-24 14:37 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

大田八景(旧 その一)

『朝鮮寰輿勝覧』(※)による大田八景

鶏足疎雨:(鶏足山にまばらに降る雨)
宝文初月:(宝文山の新月)
九峯矗石:(九峯山に聳える石)
甲川落雁:(甲川に降り立つ雁の群れ)
儒城暮煙:(儒城の夕暮れの煙)
楚江漁火:(大清湖の漁り火)
食蔵返照:(食蔵山に照り返す陽光)
高山暁鐘:(高山寺の暁の鐘の音)


※『朝鮮寰輿勝覧』
1910から37年までの韓国の人文地理現況をまとめた韓国最大の地理書。忠清南道公州の儒学者李秉延が1910年から100余名を動員して12年間にわたり全国13道229郡のうち129郡を調査して編纂した百科事典的地理書。


ひとこと
出典の書名は韓国語では「조선환여승람」となる。「寰」は日本の漢字音では「クヮン」で「宇内、区域、地域」という意味らしい。

さて、

「鶏足疎雨」と「宝文初月」はは今も当てはまるだろう。

「九峯矗石」もまた然り。
弘道塚のある大田市公設墓地の背後の山が確か九峯山。

「甲川落雁」はどうか。今も水鳥の姿を多くみかけるが、水が汚い。

「儒城暮煙」は昔の儒城の鄙びた夕暮れの景色は今となっては想像すべくもない。観光特区の不夜城、遊興街である。

「楚江漁火」はどうだろう。大清湖は1980年代に全斗煥大統領の時代に出来た人造湖なのでダムによって塞き止められる以前はあのあたりを「楚河」といったのだろう。今ナマズ、フナ、コウライケツギョなどは獲れようがはいさり火は見たことないな。

「食蔵返照」と「高山暁鐘」は今も通用しよう。高山寺は一度行ったがかなり山の奥深くにあった
気がする。俗界を離れた地という感じがした。
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by eowjs | 2005-06-23 13:20 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

プロフィール

1993年の夏から大田(テジョン)に住んでいる。
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by eowjs | 2005-06-22 16:38 | プロフィール | Comments(0)

東光橋

元洞交差点と大洞交差点の間、大東川にかかる橋から南を見るとある小さな橋。大田(テジョン)駅に近い。欄干には「昭和2年10月」と刻まれていたようだが、「昭和」の文字は削り取られている。大東川は昭和の初めごろの治水工事で整備された川。現在も水量は少ないが流れている。
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『大田市誌』上巻(古いほうの版)の該当箇所を見てみよう(直訳)。

大田の都市施設において大田治水工事及び下水工事がもっとも急務であった。1926年4月の大田面の拡張は大田の市街地の姿を変貌させる契機となった。長い間大田居留地大田指定面の中心人物として活動してきた渡辺寛治(木尺)が大田面長を辞任帰国、後任として農園(鉢岩里:現在の忠清南道庁の位置)を経営し、大田繁栄会長だった白石鉄二郎が大田面長に就任し、長年の課題であった治水工事及び下水工事を施工することになった。1926年3月に治水工事及び下水工事費本府(注:朝鮮総督府)及道費(忠清南道)補助が決定し(中略)1927年6月に治水工事が起工された。
大田治水工事とは大田市街地の中心部を貫流していた大東川・板岩川(三丁川)の氾濫を防ぐためにこの二筋の川の流れを新垈里(新興洞)付近で大東川に掘鑿合流させ、この大東川を蘇堤湖を経て蘇堤里・連孝里(引用者注:現在の城南洞あたり)で城南川(佳陽川)と合流させ、玄岩里(三省洞)にて大田川の下流と合流させる工事だった。この工事により大田地方の由緒深い宋時烈の旧居と蘇堤湖伝説・蘇堤湖春光(引用者注:旧大田八景の一)は姿を消すこととなった

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by eowjs | 2005-06-21 15:07 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)