韓国大田(テジョン)にて

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終戦時のテジョン(その3)

今日は終戦直後のテジョンで日本人がどのような対応をしたのかを『朝鮮終戦の記録』を通じて見てみます。以下、引用です。

日本人の一般市民側では、大田在郷軍人分会が、戦時中から統制ある活動を続けてきたが、終戦と同時にますます積極的な動きをみせ、自警団を組織する一方、各機関と連絡して日本人の保護に乗り出した。これは、8月下旬に大田日本人世話会が生れて、その組織の中に吸収された。世話会の事務所は春日町の某営団内に設けられた。会長には当初南鮮電気支店長青柳八百造氏が当り、富士平・辻万太郎、市岡米男氏その他の諸氏が部長になって奔走した。後に道の内務部長麻生憲治氏が青柳氏に代って会長になり、最後の引揚まで献身的に尽力したのであった。


発足当初に大田日本人世話会の会長となった青柳八百造氏は『朝鮮都邑大観』(昭和12年版)によると

 大田電気常務たる青柳氏は電業界の重鎮として知られてゐるばかりでなく、公人として忠清南道になくてはならぬ人物として、公共的方面に貢献するところ顕著なものがある。大分県の人、在鮮既に30年朝鮮の開拓に殆ど全力を捧げ大田消防組頭、商工会議所特別議員等その他多くの公職を有し、寧日なき活躍を続け、過半の南鮮電気統制に際しても立役者として卓越せる手腕を発揮してゐる。

とある。終戦当時にはの大田居住の日本人の中でも長老格であったのだろうか。次回は日本人世話会の部長のうち辻万太郎氏についてご紹介させていただきたい。(つづく)
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by eowjs | 2010-01-27 14:30 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時のテジョン(その2)

前回につづいて『朝鮮終戦の記録』から終戦直後の忠清南道の状況を要約引用してみます。

8月16日「中鮮日報」が「東辰共和国建設」を報道
同日夕刻「ソ連軍進駐し来る。先発隊が夕刻大田駅に到着する。大田市民は各戸一人ずつ駅前で歓迎せよ」とのデマが飛んで大田駅前は数千人の民衆でうずまる。結局ソ連軍は来ず。
大田刑務所では中央からの指示により政治犯・思想犯の一斉釈放が行なわれた。その後殺人や強盗等の凶悪犯が多数脱獄、市民を不安におののかせた。
建国準備委員会の傘下に「治安隊」が組織されて大田の青年の有力分子が糾合され、警察に治安の協力を申し出た。彼等が大田府内の駐在所に配置された。

―石井治助(忠清南道高等警察課長)*「同和」第158・159号(昭和36年2・3月)。昭和22年11月26日、東京にて談話聴取。―

森田芳夫・長田かな子(1979)『朝鮮終戦の記録』資料篇第1巻 巌南堂書店. より


上に見える大田刑務所は現在の中村洞の現代アパートと大田入管の位置にあった。入管の敷地の片隅には当時の監視用望楼が今も残る。
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by eowjs | 2010-01-26 16:45 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

Eマートで売っている納豆

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韓国料理もいいが、やはり幼いときから慣れ親しんだ食べ物が食べたくなることもある。僕にとって納豆もそんな食べ物の一つです。納豆はおおかたの韓国人の口に合わないようだ。ネバネバするし独特のにおいもあるからだろうか。以前は韓国で求めることができず、日本に帰省した折に買ってきて冷凍しておき、食べたりもした。

でも時代は韓国の地方都市テジョンのマートでも納豆を買えるようにしてくれた。いろいろなマートの食品売り場をざっと見たところでは大田ではEマートで「プルムウォン」のものを売っている。2つ入りのが2500ウォン、6つ入りのお得用が5000ウォン。

うちの家族は女房と下の娘は納豆は一切受け付けず、口にしない。上の娘は少しだけなら食べられる。こんな状態だから買ってきた納豆は僕がほぼ独占している。「おいしいのにどうして食べないの」などと言いつつ一人でいただくことになります。
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by eowjs | 2010-01-25 10:03 | 大田(テジョン)の今 | Comments(0)

終戦時のテジョン(その1)

『朝鮮終戦の記録』を読むと、今から65年前の終戦時の大田の様子の一端を知ることができる。以下、その一部を引用してみる。

7 南朝鮮各道の状況

1 忠清南道 石井治助(忠清南道高等警察課長)*「同和」第158・159号(昭和36年2・3月)。昭和22年11月26日、東京にて談話聴取。

 終戦を初めて知ったのは、8月14日午後10時頃である。ポツダム宣言の条文およびその受諾に関する詔書の放送があることが、同盟通信を通じて、大田の中鮮日報に入ってくるとともに、その内容が道の警察部に内報された。
 まだ公式には、なんらの情報をも得ていなかったが、とりあえず、警察部長大久保清和氏官舎に、部内各課長を召集して緊急会議を開いた。まず管下各署長に電報を発して、未曾有の難局にあたり、陛下の直接の重大放送があること、日本国民としては、国体の維持のみが許された最後の一線であって、国家の再建については、ただこれを子孫に託するほかに方法のないことを述べ、日本の敗戦を言外に伝えて、それに対処する精神的準備と治安維持に対する決意を促したのであった。部長官舎の会議は徹宵つづけられた。
 翌8月15日に総督府から公式の通告があり、知事増永弘氏(朝鮮人)以下が登庁して、悲痛の裡に天皇陛下の終戦のラジオ放送を謹聴した。やがて、全庁員は大会議室に集合し、知事から訓示があり、とくに正当な政権に引継の完了するまでは、各自その職域にあって責任を完遂すべきことが力説された。終って日本人職員だけは、解散したが、知事以下朝鮮人職員は、居残ってなんらかの申合せを行ない、やがて朝鮮語の万歳の叫びがあげられた。(つづく) 


森田芳夫・長田かな子(1979)『朝鮮終戦の記録』資料篇第1巻 巌南堂書店. pp.380-381 

上記引用文中の『中鮮日報』は大田にあった新聞社。昭和10年に『三南新報』と『湖南日報』が合併して『中鮮日報』となったのであるが、この時に社長として迎えられたのが富士平平氏である。4頁の紙面に9ポイント活字を使用して朝刊を発刊していたという。富士平平氏は終戦直後の8月下旬に組織された「大田日本人世話会」の主要メンバーとして日本人の引き揚げなどに奔走したと記録されている。
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by eowjs | 2010-01-22 16:26 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

免許の受け取りなど(備忘録)

午前10時から洞事務所で中国語の勉強をした。今日も真面目な韓国人中高年学生们と一緒に楽しいひとときを過ごした。先週メガネのおば様に日本語の五十音一覧が欲しいと頼まれてコピーしてあげたのだが、筆順がわかるものが欲しいと追加の要請(?)があったので明日持っていこうと思う。

正午ごろに家に戻ったが、子供が二人とも友達の家に遊びに行っていたので一人で昼飯を食べた。一個だけ残っていた辛ラーメンに冷凍庫からネギとニラとオムクを取り出して入れた。これに残り飯と、女房が昨夜作った大豆モヤシのナムル。これで充分満足した。舌が安上がりにできているのだ。

そのあと、先日更新の手続きをしておいた運転免許の受け取りに屯山警察署に行った。新しい免許証を見ると、有効期限は2019年の1月24日になっている。9年後この免許の更新をするときは、自分とその周りは一体どうなっているだろうか。たぶん韓国にいるとは思うが。
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by eowjs | 2010-01-21 19:03 | 備忘録 | Comments(0)

工作压力

中国のラジオを聴いていて「工作压力(gōngzuò yālì)」という言葉が聞き取れました。(ほかの言葉は全然わかりませんが)

「工作压力」とは仕事のプレッシャーという意味でしょうか。NAVER中国語辞典で見ると「엄무부담」となっています。

僕の持っている中国語の辞書は
『講談社パックス 中日・日中辞典』(相原茂)と
外研社-三省堂の『日汉汉日词典』(杉本达夫ほか)
の2冊。前者は去年の夏に名古屋駅タカシマヤ内の三省堂で買ったもので、後者は同じく去年の夏に鳥取駅で買ったものです。駅のコンコースで眼鏡やカバンなんかといっしょに売っていた。最初これは単なる古本かと思ったのですが、値札を見ると「鉄道払下品」となっています。もしかすると電車の忘れ物かも知れません。古本なら前の持ち主も他人が使うことを承知で処分したのでしょうが、忘れ物ならそうではない。後になって前の持ち主のかたに何か申し訳ない気がしました。

さて、後者の辞書で「压力」を見ると「圧力、プレッシャー」となっています。でももしかすると「压力」には「ストレス」という意味があるのかも知れません。
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by eowjs | 2010-01-20 17:39 | 備忘録 | Comments(0)

テジョン市役所20階

家族と一緒にテジョン市役所の20階にある「ハヌル図書館」「ハヌルマダン」へ行ってきた。以前は20階はスカイラウンジだったかレストランがあったのだが、今の市長(朴城孝氏)になってから「市民が自由に寄っていける空間にしたほうがいい」と言って今のように変わったと聞いたことがある。

ハヌルマダンはテーブルと椅子があり、自由に座って話しができる。壁には市民の描いた絵などがかかっている。窓からは大田市が見下ろせる。ほかにセミナー室があって会合や勉強会などによさそうだ。これは前もって申し込む必要があるようだ。20階のトイレからの見晴らしも大変よい。たぶんテジョンで一番景色のよいトイレだと思う。

ハヌルマダンの一角にあるスナックコーナーではコーヒーなどを売っている。アメリカーノやエスプレッソ1000ウォンなど。チョコタルトやチーズケーキは2000ウォン。かなり安いほうだと思う。

「ハヌル図書館」は子供向けの本がある。今日もたくさんの子供たちが読書していた。子供たちが本を読んでいるあいだ、僕は百科事典や月刊誌の『月刊朝鮮』や『新東亜』などを見ていた。

そのあと女房が公州(コンジュ)の手前にある「クンジュンカルグクス」が食べたいというので、行ってカルグクスとスユクを食べた。テジョンの中心部から距離にして約30km。昔に比べて大変道がよくなって、公州まで30分ぐらいしかかからない。錦江(クムガン)が凍っていた。
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by eowjs | 2010-01-17 19:26 | 大田(テジョン)の今 | Comments(5)

戦前の大田小唄(その②)

前回に続き『朝鮮都邑大観』(昭和12年)所載の「大田小唄」の後半部(4番~6番)を紹介する。
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  ↑昭和初期の大田駅前春日町通り(現在の中央路)の様子

4. 夜街カフエーの鈴蘭燈は ヨツホホホイ
  ジヤヅのひゞきで咲くのやら 咲くのやら 
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい

5. 艶に浮かんだ鷄龍山に ヨツホホホイ
  思ひ焦した西の空 西の空
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい

6. 今日も蘇堤で 空飛ぶ球は ヨツホホホイ
  可愛お方が打つのやら 打つのやら
  人の好く町誰も好く テモ大田 よいよいよい


まず4番の「カフエー」である。昭和初期には「カフェ」は女給のいる洋風の酒場のことを言ったらしい。戦前の大田には駅前の「春日町」にいくつかあったようだ。上掲の絵葉書の左の方に「土井洋服店」の看板が見えるが、その手前8軒道庁寄りに「有明カフェー」が、また現在の中央市場(チュンアンシジャン)内であるが、タビチ眼鏡院の裏手あたりに「カフェーアトラス」があったという。店内ではSP盤の「ジヤヅ」がかかっていたのだろう。「鈴蘭燈」は昭和初期に街路灯のデザインとして流行したという。上の絵葉書にも左手に見える。今の街灯よりも粋だ。それから正面に見える大田駅の駅舎も現在の建物より洒落ていると思うのは僕だけであろうか。

5番の「鶏竜山」は標高845メートル。現在は一帯が「鶏竜山国立公園」に指定されている。大田・忠清南道地域を代表する名山である。

6番の「蘇堤で空飛ぶ球」というのはこれだけでは何のことかわかりにくい。「蘇堤」とは大田駅の裏手、東側一帯に現在も蘇堤洞(ソジェドン)の地名が残っている。現在「鶏竜工業高校」のあるソルラン山が戦前は「蘇堤山」と呼ばれていた。その麓、京釜線の線路との間に野球場があったのである。
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by eowjs | 2010-01-16 12:07 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

大田小唄(1番から3番まで)

『朝鮮都邑大観』(昭和12年)という本がある。ずいぶん前に元洞の古本屋で買った。裏表紙に「東洋拓殖株式会社大田支店」と印が押してある。「東洋拓殖株式会社」とはいわゆる「東拓」で、大田支店の建物は現在も元洞と仁洞の中間あたりにある。その本の「大田府」の項に「大田小唄」という歌の歌詞が載っている。1番から6番まであるが、今日はこのうちの1番から3番までを紹介する。

「大田小唄」
1. モタダン大田半島の都
             ヨツホホホイ
並ぶ五つ橋花の中 花の中
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい

2. ひとつ蛇の目で片袖濡らす
             ヨツホホホイ
うれし中橋春の雨 春の雨
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい
 
3. 櫻花浮く盞あげて
          ヨツホホホイ
下旬の卯月の軍旗祭 軍旗祭
 人の好く町誰も好く
 テモ大田   よいよいよい

1番の「モタダン大田」の「大田」は「テジョン」ではなく「たいでん」と読むのだろうが、「モタダン」という語の意味がわからない。『日本国語大辞典(小学館)』にも見出し語としては出ていない。あるいは「モダン」の誤植であろうか。「並ぶ五橋」とは大田の中心部を流れる「大田川」にかかっていた橋で、南から「宝文橋」「大興橋」「中橋」「大田橋」「栄橋」である。今でこそ大田川にはたくさん橋があるが、昭和12年には5つの橋があったのであろう。昭和3年の地図を見ると「宝文橋」と「栄橋」はまだない。「大田橋」は「木尺橋」として現在復元が進められているようだ。残りの4つの橋は今も名前はそのままである。

2番の「中橋」は上でも見たように5つの橋の一番真ん中にあってその南詰めのたもとには今「패선마트1004」というファッションビルがある。その橋のある通りを「중교통」と呼ぶことがある。「中橋通り」である。

3番に見える「軍旗祭」は「ウィキペディア」によると旧日本陸軍で各歩兵・騎兵連隊が開催していた行事で、開催日はその連隊に軍旗が天皇から下賜・拝受された日、若しくはその日の前後という。この日は一般市民らに連隊を盛大に開放し、連隊の各中隊は出店を開いたり力の入ったセットを作ったり、仮装行列や様々な余興を開く等して訪れた市民達を大いに沸かせたという。

大田には朝鮮軍(第20師団)の歩兵第80連隊第3大隊が駐屯していた。今の位置で言うと、セイ百貨店の隣にあるホームプラスの位置である。(歩兵第80連隊の本隊は大邱に駐屯)歩兵第80連隊は1916年(大正5年)4月18日に創設されており、軍旗拝受もこの時である。大田での軍旗祭は4月21日に行なわれていたようだ。歩兵第80連隊は第二次大戦ではニューギニアのフィンシュハーフェンの戦いの記録などにその名が見える。大田から出征した多くの将兵が食糧弾薬不足に苦しみつつ圧倒的な戦力を持つオーストラリア軍と戦ったことであろう。
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by eowjs | 2010-01-15 16:41 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

洞事務所で中国語を習う

洞事務所(最近は住民センターというらしい)で住民対象の各種講座が開かれていることを広報紙で知った。エアロビクス、バリダンス、コンピュータ、折り紙などなどでその中に中国語があったので申し込んだ。

木曜日と金曜日の週に2回、2時間ずつで最初の1時間目は基礎、2時間目は中級。最初の日に2ヶ月分の受講料として3万ウォンを払った。僕は言うまでもなく基礎班だが、聴講してもいいというので2時間目も聞いている。

生徒は比較的時間が自由に使える主婦、定年退職した男性、自営業の人が大部分。年齢層は中高年が大半で平均年齢は50代後半といったところだろう。25人ぐらいはいるだろうか。

先生は中国のかただが韓国語がぺらぺらで、日本語もできる。羨ましい。とても明るくてやさしい方だ。ところで先生の話すそり舌音のが今まで独習用の教材についているCDなどで慣れていた音とは明らかに違うようだ。たとえば「shi」が僕の耳には「スー」と聞こえるし、「zhi」は「ツー」と聞こえる。「知道了吗?」が「ツー道了吗」という具合だ。

しかし今はそんな発音のことをとやかく言えるレベルではないので、無条件先生の発音に倣ってリピートしている。新しく何かを習うのは大変ながらやはり楽しい。早く中国語が上手になって中国旅行に行きたいものだ。それまで何年かかるかわからないけど、気長にやっていこうと思う。
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by eowjs | 2010-01-14 14:24 | 備忘録 | Comments(0)