韓国大田(テジョン)にて

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テジョンで日本大使館の領事出張サービス

パスポートの期限がもうすぐ満了するので更新しなければならないと思っていたところ、ぐうぜん日本大使館のホームページを見たら1月16日に領事出張サービスがテジョンであるというので切替申請に行ってきた。

10年前にパスポートを更新したときは高速バスターミナルの裏のシャモニーホテルという所だったと記憶しているが、今回の会場は儒城(ユソン)のアドリアホテルだった。うちから車で10分ぐらいだ。

僕はテジョンという地方都市に住んでおり、ソウルに行く用事もあまりない。本来ならパスポートの切替は申請と受け取りの2回大使館に足を運ぶ必要があるのだが、ソウルまで行くと時間もかかるし、KTXで往復すると交通費もばかにならないので大使館のこのサービスは大変助かる。

会場のアドリアホテル5階に行くとけっこうお客さん(?)がたくさんいた。20人ぐらいだろうか。旅券受け取りの人が多いみたいだった。申請用紙をもらって必要事項を書き込み、写真と旧旅券を提出して手続きは完了。新旅券の発行後6か月以内に受け取るようにとのこと。係の女性のお話ではソウルまで受け取りに行ってもいいし、今年上半期の出張サービスまで待ってテジョンで受け取ってもいいという。

会場では日本大使館とソウルジャパンクラブが制作した「安全マニュアル」が配布された。この内容は日本大使館のホームページにPDFであるものと同一だった。韓国に住んでおられるかたには役立つ内容だと思う。

安全マニュアル
http://www.kr.emb-japan.go.jp/people/ryouzibu/consulate_13.htm

日本大使館領事出張サービス
http://www.kr.emb-japan.go.jp/people/ryouzibu/consulate_7-5.htm

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by eowjs | 2013-01-17 11:31 | 大田(テジョン)の今 | Comments(2)

終戦時の忠清南道知事 4

前回と前々回に続いて1945年8月に忠清南道知事として大田(テジョン)で終戦を迎えた朴在弘氏のインタビュー(原文韓国語)をここに載せます。今回が最終回です。

とにかく私が忠清南道の道知事として在任中に一番やりがいのあった仕事は軍隊の米をもらい受けて市民の飢餓問題を解決したことだ。「皇軍」と呼ばれた日本の米を取り上げてきたのは私だけだったと思う。

終戦だが、8月14日に総督府から前もって連絡があった。明日の正午に天皇のラジオ放送があるから聞くようにとのことだった。私は直感的についに日本帝国の最後がやってきたかと思った。翌日、すなわち8月15日に私は知事室から他の人たちを出てゆかせ、一人で12時に天皇の放送を聞いた。果たせるかな私の思っていた通り日本が連合軍に無条件降伏するという内容だった。

その瞬間、 私は目を閉じて35年間の私の官職生活を振り返り、栄光と屈辱の日々を反芻してみた。ほんとうに忠南道庁の知事室における1945年8月15日のその瞬間は私の血を凍らせるような永遠に忘れられない瞬間だった。

即刻各部長を呼んですべての傘下職員らに米軍が進駐してくるまで持ち場を離れずに与えられた任務を忠実に遂行するよう指示した。特に経理関係をちゃんと整理して公的であれ私的であれすべての債務関係をきれいに清算するようにと言った。

8月15日の夜、大田の唯一の地方新聞だった「中鮮日報」が民族解放と日本の降伏について詳しく報道した。この日の記事は全部ハングルで書かれていたが、忠南道民らは久しぶりに目にするハングルに解放を実感し、感激した。 (了)



原文URL

http://cihc.or.kr/hi.do?brd_id=cihc_0403&lst_idx=2821&lst_upidx=2821&menu_id=menu1&svc=ArticleView
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by eowjs | 2013-01-07 11:00 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時の忠清南道知事 3

前回に続いて1945年8月に忠清南道知事として大田で終戦を迎えた朴在弘氏のインタビュー(原文韓国語)をここに載せます。


郡庁に勤務していた私に日本人がしきりに判任官試験を受けてみなさいと言うのでソウルに行って試験を受けたところ運良く合格した。そして33歲のときに咸鏡道の豊山郡守に任命された。1942年には平安南道の産業部長に昇進した。

そんなある日、総督の主宰で全国産業部長会議が朝鮮総督府で開かれた。この会議で私は敢えて総督府の食糧政策と米穀増産施策の問題点をひとつひとつ指摘した。すると総督は私を叱責するのではなく、後で呼び出して誉めてくれた。そしてしばらくしてその総督は日本本国の首相に栄転したのだが、(注:第8代の小磯国昭総督か)朝鮮を去るときに後任の総督に「朴在弘を道知事に昇進させるように」と話したという。こうして後任の総督は(注:第9代の阿部信行総督か)私を1944年6月に忠清北道の道知事に任命した。私が忠北知事として赴任するやいなやぶつかった問題が搾取に近い米の供出問題であった。

戦争が終局に向かうと各地方の民心は非常に動揺し、特に忠清南道はそれがひどかった。総督府では忠清南道の民心収拾のために地元(注:論山)出身の私を抜擢した。しかし1945年6月25日に忠南知事として大田に赴任してみると、やはり食糧不足が問題となっており、たいへん気が重かった。

忠南では米が非常に稀少になっていた。私は非常手段として大田に駐屯していた日本軍の連隊長に会った。連隊長は「たしかにこんなにたくさんの米を持っている必要はないですね」と言ってその場で米300俵をくれた。ところが数日後に解放された(注:日本の敗戦で太平洋戦争が終わった)のだが、戦争が終わってみてその連隊長がこんなにたくさんの米は必要ないと言った理由が理解できた。(つづく)



原文URL

http://cihc.or.kr/hi.do?brd_id=cihc_0403&lst_idx=2798&lst_upidx=2798&menu_id=menu1&svc=ArticleView
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by eowjs | 2013-01-04 11:24 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

終戦時の忠清南道知事 2

1945年8月、終戦時の忠淸南道知事であった朴在弘(日本名:増永弘)氏。新聞記者出身で現世宗市政務副市長の邊平燮氏がその朴氏に対し1975年5月に行ったインタビューを紹介するページ(韓国語)をインターネットで見つけた。その内容をかいつまんで紹介したい。以下の文章の「私」は朴氏。

 父は抗日義兵將として長く日本と戦っていた。父は抗日運動家なのにその息子は日本統治下の朝鮮で道知事を務めたのはアイロニカルなことである。しかしそれにはそれなりの理由がある。

 17歳(注:数え年だろう)のとき抗日闘争をしていた父が腸チフスにかかり当時論山にあった家に戻ってきた。そしてその後を追って日本の憲兵らが飛び込んできた。彼らはふとんをかぶって寝ている父を連行しようとした。私は言った。「おまえたちの見るように父は今病気である。その父を連れて行くのか。どうしてもというなら代わりに私を連行せよ」と。すると日本軍の伍長が「お前はまだ幼いから」と最初は拒否したが結局は根負けして私を連れていった。そして数日後にまだ子供であるという理由で釈放された。

 それでうちに戻って日本語を勉強していたのだが、日韓併合となってほどなく郡庁から私を呼びに来た。行ってみると郡庁で日当20銭を与えるので日本語の通訳をせよとのことだった。それほど当時は日本語ができる人がいなかった。そのころ土地分割事業が進められていたが日本人との意思疏通ができず韓国人の中には損をする人が多かった。私はこれらの韓国人のために働けるチャンスだと思い郡庁の臨時通訳職となった。これが私が日帝のもとで官吏として第一歩を踏み出したきっかけである。(つづく)

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by eowjs | 2013-01-03 14:21 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)

1945年8月15日 終戦時の忠清南道知事

以前、第二次世界大戦終戦時のテジョンの状況について、森田芳夫氏の『朝鮮終戦の記録』を引用したことがある。(http://shinkiku.exblog.jp/11941444/)それは、

忠清南道の幹部がはじめて終戦を知ったのは、8月14日午後10時ごろとされている。(中略)15日正午、詔書拝聴後に増永弘(朝鮮人)知事の訓示があり、終わって日本人職員は解散したが、知事以下の朝鮮人職員は、居残って何やら申し合わせ、やがて朝鮮語で万歳の叫びをあげた。(中略) 道庁内には、朝鮮人職員により忠清南道行政委員会が生まれ、日本人退陣後の部課長を決定していた。知事は、道庁職員の面前で殴打され、官舎にひきこもって出勤しなかった。

という内容であった。この終戦時の忠清南道知事の増永弘氏(韓国名:朴在弘)について気になっていたのだが、ネット上で同氏に対して1970年代に行われたインタビューの内容が公表されているのを見つけた。その内容を紹介したいのだが、それに先んじて今日はその朴在弘氏のプロフィールを見てみたい。

박재홍(パク・チェホン, 朴在弘, 日本名:増永弘, 1892年1月15日 ~ 1977年2月18日)

1911年に忠清南道魯城郡の臨時職官吏に採用され、朝鮮総督府の官吏となる。同年末に判任官見習として採用され、1912年に正式に郡書記になり魯城郡にて勤務した。以後青陽郡財務係を経て咸鏡南道洪原郡などで勤務した。

1923年には忠清南道内務部地方課勤務の辞令を受け、翌年高等官8等の総督府郡守に昇進した。咸鏡南道豊山郡に郡守として赴任し、1931年には日本政府から勳6等瑞宝章を授与された。

豊山郡、新興郡、永興郡(いずれも咸鏡南道)の郡守を経て1934年には高等官5等の朝鮮総督府理事官に昇進、咸鏡南道内務部産業課長となった。同年末には高等官4等に昇級とスピード昇進した。咸鏡南道理事官であった1935年には総督府が施政25周年を記念して表彰した表彰者名簿にもその名が見える。

以後、平安南道参与官を経て太平洋戦争の終戦直前には道知事にまで昇進した。平安南道参与官であった1943年に従5位勳4等に敍位されている。太平洋戦争の終戦当時には忠清南道知事として在職中であった。


参考ページ

韓国国史編纂委員会 韓国史データベース
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=im_106_10216

韓国語版ウィキペディア
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%95%EC%9E%AC%ED%99%8D_(1892%EB%85%84)
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by eowjs | 2013-01-02 18:01 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(0)