韓国大田(テジョン)にて

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旧・大田神社

戦前、韓国の各地に神社が建てられた。日本での出身地を異にする居留民たちの心を一つにするための精神的紐帯が必要だったろうし、生活の安寧などを祈願する場所、心の拠り所が欲しかったのだろう。この心情は僕も日本人だから理解できる。大田にも神社があった。
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このうち「太神宮」は1917年に「大田神社」と名称が改められ、1928年に昭和天皇の即位大典を記念して現在の聖母女子高校の位置に遷座した。したがって遷座以前の大田神社を「旧・大田神社」と呼ぶことにする。
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1904年以降大田に移住する日本人が年々増加し、1907年ごろにはその数が約700人に達した。それで居留民らが同年4月に蘇堤山の上に社殿を創設して天照大神の神霊を祀った。これが大田神社の始まりという。この旧・大田神社は大田駅の東側、蘇堤山と呼ばれた丘陵の上にあった。現在の東区蘇堤洞である。旧・大田神社のあった辺りには住宅が密集しており、その位置を確認することすら難しい。だが蘇堤公園へと登る道、同時に旧・大田神社の参道だった道は現在も残っている。上の地図にオレンジ色の矢印で記した道がそれで、現在の様子はこんな感じになっている。↓
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この旧・大田神社の写真だが、LIONDOG様のホームページに写真があった。以前許可をいただいたので、ここに転載させていただく。
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韓国の「ノーカットニュース」というホームページにも旧・大田神社の写真があるのを見つけた。→大田にあった民族精神抹殺のための日本の神社(대전에 민족정신 말살 위한 '日 신사' 있다)。写真を見ると小さな御堂のような建物が一つ立っており、その近くに韓国人と思われる年配の男性が地面に座りキセルでタバコをふかしている。何となくのどかさが感じられる写真だ。1930年代以降の皇国臣民化政策の時代ならともかく、1907年に韓国人の民族精神を抹殺するために大田神社を建てたかかどうかはわからないが、韓国の人たちから見れば目障りな施設だったのかも知れない。

いずれにせよ、ハッキリしているのは1910年代には大田駅の東側の蘇堤山に公園があり、そこに太神宮のちに大田神社と呼ばれる施設があったということ。当時そこから西の方角を見下ろすと眼下には蘇堤湖の水面が広がり、その向こうに大田駅、そしてその周囲に建設が始まってまもない大田の町が見えたことだろう。
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by eowjs | 2013-06-30 12:55 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

白石鉄二郎氏作詞の大田小学校校歌

戦前の朝鮮の初等教育や学制に関する知識はゼロに近いが、大田の初等教育に関しては、まず朝鮮人が通った学校と日本人が通った学校があったと理解している。前者は「普通学校」で現在の三省初等学校や新興初等学校がその後身。後者は大田川にかかる大興橋(テフンギョ)のたもとにあった。1980年ごろまでは元洞国民学校として残っていたが、廃校になったという。田中麗水『大田発展誌』(1917)に日本人の通った学校の沿革が出ていたので以下に引用したい。

 明治39年(1906)4月大田小学校として開校し、41年(1908)12月大田居留民会立尋常高等小学校と改称し更に45年(1912)4月に大田尋常高等小学校と改む。大正3年(1914)より高等科女子補習科を併置す。開校当時17名の入学生徒数なりしも大田の市勢発展に伴ひ年々就学生増加し大正6年(1917)4月末に於て568名の生徒数となり(中略)狭隘なるを以て埋立地に二階建130坪の校舎を新築する計画なり。
 大田小学校の校歌として第二期管理者白石鉄次郎(ママ)氏の著作になる校歌は左の如くなるが以て大田小学校の紀念たるべし。

大田公立尋常高等小学校校歌 井上通泰 校閲 白石鉄次郎 作詞 田村虎蔵 作曲

一、対馬水道、わたり来て、第二のふるさと、つくりたる、父母の努力を、おもひ見よ、大陸かけて、みちわたる、君が御稜威を、あふぎ見よ、われらは幸ある、身ならずや。

一、鶏龍山は、たかけれど、よづるにかたき、ものならず、まなびの道は、とほくとも、うまずたゆまず、いざゆかん、大田川の、かたときも、やすまぬ水を、かゞみにて。

一、心をみがき、身をきたひ、つよくたゞしき、人となり、名をあげ家をも、興してん、あやに尊き、大君の、しこの御楯と、なりぬべく、いざやはげまん、もろともに。
『大田発展誌』pp.37-39より

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by eowjs | 2013-06-29 12:54 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(2)

現在の東光橋

今日、大田駅の双子ビルの中にある銀行に用事があったのだが、りうめい様のコメントに刺激を受けて、途中東光橋に寄って写真を撮ってきた。2005年の写真と比べるとハッキリ違うのが以前小さな住宅が密集していた橋の東側が再開発されてアパート団地が建ったこと。
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橋名を掘った柱は今も東西両端にたっているが、何かの記事でアパート団地の工事の時にこの柱が無造作に転がされているのを惜しんだ人が改めて工事終了後に立て直したというのを読んだ記憶がある。今回東側の柱を見ると角がちょっと欠けている。やはり地面に転がされていたのだろう。工事のときに廃棄されないでよかった。
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それと韓国側のほとんどの資料(『大田地名誌』など)ではこの橋の建立を1928年としている。1928年は昭和3年に当たる。削られていてよく見えないのだが、写真を見ると「昭和二年」のようにも見えるのだが、いかがなものだろうか。
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by eowjs | 2013-06-28 13:41 | 大田(テジョン)の今 | Comments(2)

大田市東区「はなげ」食堂

今朝、職場近くを自転車で走っていて何の気なしに看板を見て驚いた。美しい字体で「はなげ」と大きく書いてある。最近オープンしたお店らしい。

最初は「はなみ」「はなび」など「花」方面のなまえを間違って表記しているのか、と考えた。しかしよく見ると看板の右端に鼻毛を生やしたコックさんのようなイラストがある。だからやっぱりこの食堂の名前は「鼻毛」なのだろう。それを知って2度びっくり。ぜひ一度食べに行ってみたいです。

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by eowjs | 2013-06-25 18:31 | 大田(テジョン)の今 | Comments(0)

東光橋について(りうめい様へ)

りうめい様

はじめまして。「東光橋」に関する記事にコメントくださり、どうもありがとうございます。まず、お返事が遅くなってどうもすみません。お返事をコメント欄に書き、アップロードしようとしたら文字数をオーバーしているとエラーメッセージが出ましたので、こちらのブログ本文に書くことにしました。

白石鉄二郎氏の名前は大田の歴史に関する本でしばしば目にしますものの、僕は断片的な知識しか持っていません。たとえば1915年に大邱との陸軍部隊の誘致合戦に敗れて学校組合管理者を引責辞任したこと、1921年ごろに大田では「長老」と呼ばれていたこと、1932年に忠南道庁が大田に移転してきたとき移転祝賀会の会長を務めたこと(以上、田中麗水「新興大田の回顧」『釜山日報』1932年の新聞連載記事)

大田居留民会の後進である大田学校組合の第二期会長(1913-1915)としてさまざまな施策に取り組んだこと(田中麗水(1917)『朝鮮大田発展誌』pp. 30-32)

「白石農場」は大田の果樹園の中で規模が大きく、同園の苹果紅玉が朝鮮施政5年紀念物産共進会で金牌を受領したこと、(同上書p.86)

1930年代中盤に大田建設の功労者とされていたこと(安齋霞堂(1932)『忠清南道発展史』湖南日報社p.37) ぐらいでしょうか。

下関商人の白石正一郎氏との関係についてですが、名前等からして、もしかすると親戚かと推測するぐらいで、今の僕は全く知るところがありません。お役に立てずどうもすみません。

つぎに東光橋の名前の由来です。りうめい様は白石鉄二郎氏が山口出身で、その親族かもしれない白石正一郎氏宅の近くに東光寺がある。鉄二郎は故郷のお寺の名前にちなんで大田の橋に「東光橋」と名付けたのではないか、と推測なさっているのですね。

白石鉄二郎氏は1925年6月に大田面長になっており、大東川の治水工事も彼の在任中のことなので、自分の故郷にちなんで名付けた可能性は十分にあると思います。ただ、それを証明するには史料を探す必要がありますね。韓国の国家記録院に「大田治水及下水改修工事施行及国庫補助書類」(1927年および1928年)という文書があるそうです。僕は見たことがないのですが、もしかするとこのような資料に橋の名前の由来などに関する情報があるかも知れません。

「東光橋」の名前の由来について、もう一つの可能性として提示できるのが、「東光」という地名に由来するというものです。橋の2キロほど東北方向に「東光山」という山があり、そのふもとの集落をかつて東光マウルと呼んだそうです。(大田直轄市(1994)『大田地名誌』p.310)今は東光初等学校という学校名にのみその名残をとどめていますが、西南の方から来た人が東光橋を渡り道に沿ってまっすぐ行くと方向的にはその東光という集落に至るので、もしかするとそれに何か関係があるのかも知れません。

はっきりしたことはわからないのですが、とにかくりうめい様、大田の歴史に関心を持ってくださってコメントくださりありがとうございます。コメント欄のお名前の部分のリンクを通じて韓国の近代建築に関するすごく内容のすぐれたブログを運営しておられることを知りました。また遊びに行かせてもらいますね。長くなりました。今回はこれぐらいにしておきます。
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by eowjs | 2013-06-24 12:16 | 大田(テジョン)の昔 | Comments(4)