今までに私が目にすることのできた資料(証言、書籍、WEBページ等)をもとに終戦直後の大田の状況を一人の少年の視点を通じて再現してみました。
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あの日以後、すべてが変わってしまった。僕自身の生活はもちろんのこと、信じていたものが全て砂上の楼閣に過ぎなかったということを知った。
僕は1930年8月20日、忠清南道大田府本町2丁目124番地で生まれた。父は1920年代はじめに韓国にわたり、雑貨屋を経営していた。店は駅前の「大田館」旅館の斜め向かいにあった。あの夏の日には僕は大田公立中学校の3年生(25期生)だった。
あの日以後、電気会社社宅の塀に「日本人皆殺し」などと云うビラも貼られるなどのこともあって数日間外出を控えていたが、家の中でばかり過ごすことに飽きたこともあり、好奇心にかられて大田駅に行ってみた。駅前で偶然韓国人同級生の朴成圭君に会っていろいろな話しをした。10名ほどしかいなかった韓国人同級生のうち僕は彼と一番親しかったのでいろいろな話しをした。
既にあの日の翌日に「東震共和国」の閣僚の顔ぶれで紙面をうずめた『中鮮日報』が大田府庁前に掲示されていたという話しを外出から戻った父や兄が興奮気味に話すのを聞いていたし、左派の黄義準氏を中心に、大田建国準備委員会が南鮮合同電気会社大田支店の建物を拠点に活動しはじめているという話しも聞いていた。時代は大きな波のうねりの中で激しく動いている。
朴成奎君のお父さんは道庁の職員なのだが、道庁内には、韓国人職員により忠清南道行政委員会が生まれ、日本人退陣後の部課長が既に決定したのだと朴成奎君は言った。あの日は放送の後で増永弘知事(韓国人)の訓示が終わると日本人職員はそのまま解散したが、知事以下の韓国人職員は、居残って韓国語で「万歳」の叫びをあげたという。(その後知事は、道庁職員の面前で殴打され、官舎にひきこもって出勤しなかったそうだ)それから僕は知らなかったのだが、あの日の翌日の夕方には「ソ連軍の先発隊大田に到着」のうわさが流れて数千名の群衆が大田駅に集まったそうだ。結局ソ連軍はこなかったが、群衆の中で、民族独立の歓喜を叫ぶ演説が行なわれ、米英軍歓迎の英文のプラカードを立てた民族主義系李雄烈氏の一派と左派との間に衝突があったという。
そんなこんな話しを聞いて、今後の見通しに関するお互いの意見を時の経つのも忘れて話し込んだ後、彼は「お前、一人歩きは危ないぞ。俺が守ってやるから外出する時には前もって連絡しろ」と言って春日町の方へと去っていった。
結局、10月28日、幼いときから秋が来るたびに何度も見てきた韓国の美しく澄んだ青い空の下、僕ら一家は多くの日本人とともに貨物列車で大田を脱出して釜山に向かった。ところで僕らが大田を出発して引揚げる日をどのようにして知ったのか分らないが引揚の貨物列車が出発する時、朴成奎君が大きなリンゴ箱を一箱かついで乗り込んで来て釜山まで見送ってくれた。 嬉しかった。
そしてその後釜山で数日を過ごした後、米軍のリバティ型輸送艦に乗って博多港に着いた。検疫のために1週間ほど博多沖に停泊したまま過ごしたのは退屈だったが、あの時船員が歌ってくれた「りんごの歌」はそれまで軍歌と唱歌しか知らなかった僕にはとても明るく新鮮な感じがした。日本は幼いときに一度来たことがあったが、物心ついてからは初めてだった。船に乗る前に下着の下に隠し持っていた日記や写真も釜山で没収されたので、文字通り着の身着のままでの引き揚げだった。
これから韓国は韓国人の手で新たな歴史を作り出して行くことだろう。言うまでもないことだが韓国は韓国人の国だ。ただ単に僕らが他人の土地で主人のように振る舞っていたのに過ぎないのだ。
しかし僕は大田で生まれて大田で育った。大田は言ってみれば故郷だ。いつかまた大田に行くことのできる日が来るだろうか。親切にしてくれた朴成奎君にいつかまた会えるだろうか。それにしても一番気になるのは今年の春に腸チフスで3歳で亡くなり、蓮孝里の共同墓地に埋葬したまま持ち帰れなかった妹の遺骨のことと家に残してきた飼い犬のシロのことだ。
もうあと数日で1946年だ。今年は僕の人生で絶対に忘れられない年になることだろう。
-おわり-